■《要旨》
藤原定家(応保二年<1162>~仁治二年<1241>8月20日没 80歳)は、藤原長家流の御子左家藤原俊成(永久二年<1114>~元久元年<1204>11月30日没 91歳)の二男。父俊成は初め歌の家六条藤家清輔と対抗し、治承元年<1177>清輔没後は、藤原兼実の知遇を得て、後白河上皇院宣『千載和歌集』(文治四年<1188>)の撰者となり、御子左家の歌の家としての基盤と地位を築いた。
その俊成は、建久五年<1194>の『六百番歌合』において判詞をつとめ、その中で、当時の歌人にとって「源氏物語」が必読書であることを、「源氏見ざる歌詠みは遺恨事也」(「六百番歌合」冬上十三番「枯野」判詞)という詞で残している。あわせて、そこで「紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也」という感想をも述べている。この時、藤原定家も出詠している。33歳である。
ところで、定家は、この建久頃に、家中に「源氏物語」が無かったことを言っているのである。
去年11月から家中の小女等に書写させた「源氏物語五十四帖」が出来上がり、昨日表紙付けを終え、今日その外題を書いて完成した。建久の頃に「源氏物語」(家の証本ともいうべき物)を盗まれて以来、長年証本作りを怠けてこの物がなかったが、漸く出来上がった。とはいうものの、なお狼藉不審の箇所は多々あり、必ずしも満足のいく出来でない(『明月記』嘉禄元年<1225>2月16日条)。
その3ヶ月後、承明門院姫宮から所望され、定家は「紅葉賀」「未通女」「藤裏葉」三帖を書き進ぜた(『明月記』嘉禄二年<1226>5月26日条)。
定家は、室町殿から借りていた「源氏物語」二部を「家本」と「見合」せ「用捨其詞」して返上した(『明月記』安貞元年<1227>10月13日条)。
それから3年後の寛喜二年<1230>に、定家は「桐壺」(と「紅葉賀」)を分担して書くよう命じられる(『明月記』寛喜二年<1230>3月27日条)
その翌日の3月28日、4月3日、4月4日には、その2帖の書写に難儀する様子が日記に書かれている(『明月記』寛喜二年<1230>3月28日条「桐壺」を書くこと渋る、同4月3日条「紅葉賀」を書終られず、同4月4日条「源氏物語」を書く間、発熱歯痛)。しかし、4月6日には、完成させて進呈した(同4月6日条「桐壺」「紅葉賀」進之)。なお、後に「夕顔」巻は忠明中将が分担書写したことを知る(同4月26日条「夕顔」は忠明中将所書)。
定家は、翌年の寛喜三年<1231>には、「源氏物語歌」を書出して奉覧した(『明月記』寛喜三年<1231>2月10日条)。
その翌翌年の天福元年<1233>には、「源氏狭衣歌合」を作った(『明月記』天福元年<1233>3月20日条)。
■目次
・藤原定家の「源氏物語」本文とその生成過程の研究
・定家本「源氏物語」生成過程の研究
・藤原定家筆「自筆本奥入」掲載「源氏物語」本文 翻刻資料
・伝三条西公条筆本「異本源氏物語奥入」掲載「源氏物語」本文 翻刻資料
■藤原定家筆青表紙本「源氏物語」 翻刻資料