2006年7月14日開設(ver.1-1)
2006年7月14日更新(ver.1-1)
高千穂大学教授 渋谷栄一著(C)
更新内容

藤原定家と「源氏物語」注釈とその生成過程の研究ノート


《目次》
0.概要
0-1 出典について
0-2 巻立・年立等について
0-3 内容理解等について
1.草稿本 藤原定家筆「自筆本奥入」研究と資料
1-1 伊行釈
1-2 注加
1-3 追注加
1-4 資料
2.抽出本 「青表紙本源氏物語」の「奥入・付箋」研究と資料
2-1 付箋
2-2 奥入
2-3 行間注記
2-4 資料
3.増補本 伝三条西公条筆本「異本源氏物語奥入」研究と資料
3-1 増補部分について
3-2 資料
4.流布本 高松松平文庫蔵「別本源氏物語奥入」研究と資料
4-1 増補部分について
4-2 資料

《概要》
 藤原定家(1162~1241)は、「源氏物語」の最初の注釈書である藤原伊行(1138~1175)の「源氏釈」を踏まえて、(1)その採るべきべき説は採り、(2)捨てるべき説は捨て、また(3)修訂すべき説は修訂し、なお判断に苦しむ説は(4)一応そのまま載せて後考を待つという方針で、所持する桝型本の「源氏物語」の巻末余白に、例えば「伊行朝臣勘」「伊行朝臣」「伊勘」「伊行」「伊」などと出典を明記して、その注記を引用した。したがって、「源氏釈」説を踏まえた定家説というべき性格のものである。なお、出典明記の名称がさまざまであると共に、その出典を明記することも途中から省略され、再び突然、出典明記が出て来たりする。しかし、定家が全巻において「源氏釈」を踏まえていることは、現存する「源氏釈」の注記を対照すれば明白である。

 定家は、それに次いで、自らの注記を「書加之」「注加」「書加」などと明記して注記を加えている。その際に、定家は、注釈を加えるべき項目について、(1)本文を抄出したり、あるいは、(2)「ー事」と要約した注記項目を掲出して、注釈を記している。また(3)それらが無く注記だけを記している場合もある。そして、定家は晩年の出家後(定家72歳、天福元年<1233>以後)に、これら巻末の注記部分を「源氏物語」本体から切断して一冊の本の仕立て直した。すなわち、藤原定家自筆「奥入」と呼ばれるものである。さまざまな朱墨の跡や墨の濃淡、切断後の修訂や書き入れ注記などが認められることから、定家の注釈作業は、切断される以前そして以後の長期間にわたって不断に続けられたものと推量される。いわば藤原定家の「源氏物語」注釈の「草稿本」的な性格を有するものである。

 そしてまた一方で、藤原定家は、その間に、縦長本の青表紙本「源氏物語」54帖(定家自筆本・明融臨模本・大島本)を完成させた。その際に、定家は、源氏物語の注釈を、(1)比較的短い和歌や漢詩文詩句は本文中に「付箋」で示し、また(2)比較的長文になる漢詩文や歌謡、故事などは巻末の「奥入」に注記するという仕分けた。したがって、「自筆本奥入」のある段階の内容を伝える、いわば「精選本」的内容となっている。(未完)

目次

【1.研究史】
 a)池田亀鑑「奥入第一次本・第二次本」説
 b)待井新一・今井源衛「奥入第一次本・第二次」逆順説
 c)寺本直彦・池田利夫「奥入第一次本・第二次本他、不断生成」説

2.切断箇所より見たる注記の前後
 a)切断以前の注記 本紙上の切断による欠損
 b)切断以後の注記 継紙上の補筆・書き加え

3.筆跡行間字詰めより見たる
 a)筆跡1 「伊行朝臣勘」他、源氏釈引用書付群
 b)筆跡2 「書加之」他、定家注記群
 c)筆跡3 「ー事」他、定家追加注記群

4.注記の削除、差替等の注釈過程より見たる
 a)第1次 先行注釈書「源氏釈」説の批判的継承
 b)第2次 その後の追加、差し替え
 c)第3次 最終的追加

5.藤原定家自筆本・上冷泉明融臨模本・飛鳥井雅康筆本「源氏物語」の奥入・付箋との比較から

  6.各巻の注釈生成過程

1.研究史
 a)池田亀鑑「奥入第一次本・第二次本」説

 b)待井新一・今井源衛「奥入第一次本・第二次」逆順説

 c)寺本直彦・池田利夫「奥入第一次本・第二次本他、不断生成」説

2.切断箇所より見たる
 a)切断以前(切断により判読不明また一部切れる行また文字をもつ)の注記群
   a 切断により欠損したままの文字を残している注記群
   b 切断により欠損した文字を補筆修正している注記群
 b)切断以後(継紙上の文字と本紙上の文字が一筆)に加えられた注記群
   c 継紙上の巻名と本紙上の注記が一筆で、注記は切断直後の注記群
   d 継紙上の巻名を含まない書加注記が、他の本紙上の注記とも一筆の注記群

3.筆跡より見たる
 a)筆跡1類 切断以前注記群の最も古い筆跡類
 b)筆跡2類 切断直後注記群の次いで古い筆跡類
 c)筆跡3類 その他の注記群の最終筆跡群

4.注記の削除、差替、書加等の注釈過程より見たる
 a)第1次注記群(原初から切断時までの間)
   a 「伊行朝臣勘」他、源氏釈引用書付群
   b 「注加」他、定家注加え群
 b)第2次注記群(切断直後)
   c 巻名と一筆の注記群
   d 巻の異名、並び巻等  c)第3次注記群(製本後から晩年まで)
   e 「非人桑門明静」他、製本後の最も新しい筆跡群
   f 有職故実、古記録等の注記群

5.藤原定家自筆本・上冷泉明融臨模本・飛鳥井雅康筆本の奥入・付箋及び他の奥入諸本との比較から
   a 源氏物語にある
   b 他の奥入諸本にある
   C 共にない

6.各巻の注釈生成過程

「自筆本奥入」の本文様態

 「桐壺」
 継紙上の巻名「桐壺」は切断直後の書き加え。
 次行の「このまき一の名 つほせんさい」の右端は一部継紙上にかかる。すなわち「乃」「き」「一」「の」「名」「徒」「本」「せ」「ん」「さ」「い」。うち「せ」「ん」「さ」は筆跡の連続性に断絶が見られるが、「一」「の」「名」「徒」「本」は明らかに一続きの筆跡である。よって、継紙との段差による断絶と見られる。そして次行の「或本分奥端有此名謬説也」以下「一巻之二名也」まで、巻名と一筆である。よって、巻名「桐壺」以下「一巻之二名也」まで、切断直後の注記群と考えられる。
 1丁ウ最終行「ゆめにも見しと思ひかけきや」は、切断により左端切れたままの文字と補筆された文字とが有る。「め」「見」「思」「き」の左端は欠けたまま。「ゆ」「ひ」「か」「け」「や」の左端は継紙上に補筆されたものである。
 2丁オ第1行「書加之」も、「書加」の右端一部が継紙上にかかる、あるいは継紙が下で糊代上の文字か。次行の「寛平遺誡」以下と1面裏は一筆と見られる。ただし、行間に書き入れられた文字群はそれより後となろう。
 なお、この「書加之」以下の「とふ人もなき」歌は、1オの行間書入歌を改めて書き移したものであるから、その間には時間敵差がある。
 2丁ウ最終行「ともし火をかゝけつくして」は、「も」「か」の左端が継紙上にかかる。
 3丁オ第1行「同長恨哥」は、継紙上の後補筆。左端一部は本紙上にかかる。その「恨」は切断された元の文字の一部が残り、重なって見える。
 以上、1丁オ「伊行朝臣勘」から3丁オ最終行「内竪<シユ>亥一剋奏<ス>宿簡<トノイフタヲ>」までは、行間の取り方(ほぼ9行書)、そして朱筆が加えられているなど共通点が見られる。ここまでは切断以前の注記であろう。
 3丁ウ最終行「退出<ス>於射場<ユハニ>着<ス>沓<ヲ>撤禄<ヲ>次冠者二人」の左半分は、継紙上に書かれている。そして本紙上の文字と一筆に見られる。
 4丁オ最1行「入<テ>仙華門<ニ>於庭中<ニシテ>拝舞<ス>退出参<テ>仁和寺<ニ>」の右半分も、継紙上に書かれている。そして本紙上の文字と一筆に見られる。よって、3丁ウ「延長七年二月十六日当代源氏二人元服」から最後の4丁ウ「内侍所四采女<ウネヘ>一内教坊一糸所一御匣殿一」までの3面は、他の面同様にほぼ9行書であるが、1行の字詰が15字以上のびっしり詰まった書き方である。そして、朱筆も見られない。よって、この注記群は、おそらくは切断後の最終段階の注記であろう。
 以上、「自筆本奥入」の「桐壺」は、源氏物語巻末の遊紙に、まず先行注釈書「源氏釈」から「伊行朝臣勘」と記して引歌・引詩を引用し、それに自説を行間に書入れた。次いで、「書加之」と記して、さらに古記録、有職故実、語義等を加えた。その際に、本文を抄出し注記を記すという形態をとった。その後、定家は本体から注釈部を切り離し「奥入」とした。その後も故実に関する注記を書き加え、また巻名に関する説を冒頭に掲載して、現存本「自筆本奥入」の内容と形態になった、と考えられる。
 なお、明融臨模本の「奥入」は、現存本「自筆本奥入」の内容とほぼ同じ、かつ精選した内容である。すなわち、抄出本文は簡潔にし(「かたみのかむさし」「右近のつかさのとのゐ申」)、注記は自筆本の訂正後の注記(「とふ人なき」歌)を転載し、さらに新しい注記(「今更に」歌)を追加。そして「命婦 女房の五位」云々の注記は削除。したがって、明融臨模本の「奥入」は、自筆本「奥入」成立後の成立である。

 「帚木」
 巻名「箒木」は切断後の書き加え。やや大振りの文字。帚木の注記は遊紙表面を残してその裏面から書き付けている。
 5丁ウ最終行「つなひきするそなはたつときく」は、「つ」「な」「ひ」「す」の左端一部が継紙上にかかる。そして「つ」「ひ」「す」の左端は補筆されているが、「な」は切れたままである。よって、この注記は切断される以前から存在していたものである。
 6丁オ第1行「あすか井にやとりはすへし影もよし」は、右半分が継紙上にかかる。やや肉太の筆跡で書かれている。「あ」「す(須)」「か」「井」など、その線の連属性から一筆と見られる。一方「に」「や」「す(寸)」は横線に不連続な点が見られる。前者は肉太の筆跡で上からなぞったものであろう。後者は欠けた一部を補筆したものであろう。
 6丁ウ最終行「留乎於々保支美支万世江々々无己尓(无己尓$)」は継紙上の後補筆。そして、7丁最初行「せ无美以左可奈尓奈与介无(せ无美以左可奈尓奈与介无$)」も継紙上の後補筆。しかも、補筆したところの6丁ウの下3文字と7丁オ全行は本紙の注記文と重なる、切断によって切り落とされたのは「留乎於々保支美支万世江々々无己尓」だけと気付いて、削除した。
 8丁オ第1行「人間<ニ>無正色<セイソク> 悦目<ヲ>即為妹<カホヨシト>」は、右半分が継紙上にかかる。この行は7丁最終行と対句的表現、よって同文字の「無」「正」「悦」「即」「為」を比較すると、継紙上の部分は、線の連続性また止め方等から、前行の文字とは異質と判断され、補筆と考えられる。
 9行オ第1行「聞<キケ>若<モシ>欲<スルモノナラハ>娶婦<メヲトラムト> 娶婦<コト>意如何」は、「聞」「婦」「婦」の左端一部が継紙上にかかる。「欲」「娶」「娶」の右端は切断によって切れたまま。よって、この注記は切断以前から存在した注記と考えられる。継紙上は補筆によると考えられる。同様に、継紙上の片仮名の振り仮名も補筆である。
 9丁ウ最終行「又在行成卿記」は、左半分が継紙上にかかる。線の連続性、墨色等から一筆と認められる。よって、この注記は製本された後に書かれたものと考えられる。
 以上、「自筆本奥入」の「帚木」は、5丁ウの冒頭に「伊行朝臣」と記して、以下7丁ウの「五経」まで、先行注釈書「源氏釈」から引歌と引詩を引用する。ただ、「風俗」に関しては題名のみ記して空白のままに約5行分残して催馬楽の引用へと移っている。なぜ、題名のみに止めたか。それは源氏釈が前者では平仮名表記、後者は万葉仮名表記、定家は万葉仮名表記の出典を記したかったのか。空白未勘のままに終っている。また「二道」に関しては、源氏釈に無い項目。初め「父家ニ居住せハ」云々の注記を記したが、後に「是ハ非本文」と欄外(頭注)に記し朱の掛点符号を付けて、「(白氏)文集 秦中吟」を指摘し直している。7丁ウの「注加」以下、定家の自説を中心に記す。その際に、本文抄出して、漢詩文の出典を記す。先の「白氏文集」秦中吟の「議婚」全文を指摘する。ここまでは、朱筆による漢文返点、送り仮名等がみられる。9丁オは1行書いたままで、その後の約8行分空白のまま残す。9丁ウの「なかゝみ」(「安家説」として引用)と「なか河」に関する語釈は、自筆本「奥入」として成立した後に書く加えらえた部分である。
 なお、明融臨模本と大島本「奥入」は、複雑な様相を示しているが、これは奥入の成立問題を反映したものではないか。まず、自筆本「奥入」では「注加」以下に出てくる本文抄出の「まとのうちなるほとは」と「ふたつのみち」の注記の間に、「伊行注」「已上伊行朝臣注也」として源氏釈からの引用が大きく割り込んでいる。しかもその中に次巻の「空蝉」の注記が紛れ込んでいる。しかしそれは、「空蝉」の注記全てではなく、引歌4首中の2首が紛れ込んでいるものである。さらに自筆本「奥入」の最終注記「なかゝみ」と「なか河」の注記が無い。自筆本「奥入」の「まとのうちなるほとは」と「ふたつのみち」の本文抄出は、同一面に書かれている注記項目であるから切断による綴じ誤りから生じた問題ではない。また、次巻の「空蝉」の注記の紛れ込みも、自筆本「奥入」では「こひしき」歌と次の注記項目「風俗」は同面に引き続き書かれているので、これも錯簡から生じた問題ではない。よって、明融臨模本と大島本の「奥入」は、自筆本「奥入」から出来たものではない。今、別の資料から出ているとだけ言っておこう。

 「空蝉」
 巻名「空蝉」は継紙上の書き加え。やや小さめの文字で、注記の右傍らに書き加えた感じ。
 11オ第1行「夕やみは道たと/\し月まちて」は、「夕やみは道た」まで継紙上にかかる。一方、「と」以下は全て継紙上に書かれている。墨色は同じ。線の連続性を見ると、「夕」と「や」はなぞった補筆、「み」「は」「道」「た」は切れた部分を補筆し、「と」以下一筆で継紙上に書いている。本紙の文字と比較してやや墨跡濃く肉太の筆跡。
 11ウ第1行「うつせみ」はやや小さめの筆跡。しかし後の書き加えとは断じがたい。墨色は「二のならひとあれと」以下とほぼ同色と見なせる。
 以上、「自筆本奥入」の「空蝉」は、「伊行朝臣」「伊行朝臣勘」や「注加」「書加之」などの注記がない。しかし、第2項目の「伊予のゆの」歌は、先行の源氏釈では指摘されず、定家が初指摘。よって、この注記は一時期に書かれたものと見なせる。

 「夕顔」
 巻名「夕顔」は、11丁ウの注釈の冒頭に書き加えられている。11丁オの巻尾本文後の空白部分に余白を残しながら、注釈部の冒頭の狭い箇所にかかれているのは、「空蝉」「若紫」と同様。
 11ウ最終行「天<ノ>長<キ>地<ノ>久<キ>有時<ニ>尽<クルコト>此恨<ウラミハ>綿<メン>々<トシテ>無<ケム>絶<ユル>期<コ>」の左端一部継紙にかかる。その左端は一筆のようでありまた墨色薄い。すなわち糊代の下部か。
 12オ第1行「にほとりのおきなかゝはゝたえぬとも」は、継紙上の筆跡。その左端一部「の」は本紙上にかかる。しかしまた「ほ」は切れているようにも見受けられる。
 以上、「自筆本奥入」の「夕顔」は、「空蝉」同様に「伊行朝臣」「伊行朝臣勘」や「注加」「書加之」の注記がない。基本的に「源氏釈」から引用し、うち「長恨歌」(「七月七日長生殿」云々と「八月九月正長夜」云々)は漢文表記にし、また引歌(「にほとりの」歌)の追加などがある。しかも、それら注記はすべて一筆で書かれている。そして「名対面」と「揚名介」の故実に関する注記は、12丁ウに一括して掲載。なお後者の注記に関して、注記2行分を墨で抹消して、「此事源氏第一之難儀也末代人非可勘<カムカヘ>知<ヘキ>事<ニ>歟」とした。しかしその筆跡はその面の筆跡と一筆に見られ、抹消後に書き加えられたものではない。

 「若紫」
 巻名「若紫」は、13丁ウの注釈の冒頭に書き加えられている。11丁オの巻尾本文後の空白部分に余白を残しながら、注釈部の冒頭の狭い箇所にかかれているのは、「空蝉」「夕顔」と同様。ただ「夕顔」に比較してやや大きめの文字。これは余白が大きかったためか。
 13丁ウ最終行「おゝ之とゝと之屯止おゝ之屯止止屯止」の半ば、継紙上の筆跡、右端本紙上にかかる。その際に元の文字と重なるものがある。すなわち、「屯」「お」「屯」「屯」などである。
 14丁オ第1行「君をいかておもはむ人にわすらせて」も継紙上の筆跡、左端一部が本紙上にかかる。左端の本紙上の文字が多く残っているので、継紙上に補筆。またそのため「を」「せ」は見にくい文字になったり、「む」「人」は線の連続性が不自然になったりしている。
 以上、「自筆本奥入」の「若紫」は、「夕顔」同様に「伊行朝臣」「伊行朝臣勘」や「注加」「書加之」の注記がない。基本的に「源氏釈」から引用し、うち「すみそめ」歌と「みなといりの」歌にはそれぞれ「不可用」(墨)「非此哥」(朱)「心玄隔此哥ハ鞍馬山也非此事」(墨)「上句此哥如何」(墨)などと注記を加え、それぞれ朱と墨とで掛点を付けている。なお前者については、14ウに「くらふの山」といずれ注勘すべく項目を立てていたが、結局「定有證哥歟未勘」で終っている。14ウ「未勘 なそこひさらむ」は、源氏釈に「たつぬへし」(冷泉家本)また空白(前田家本)とあった項目。定家は14オに「人しれす身はいそけとも年をへてなとこえかたきあふさかのせき」と指摘しているのだが、和歌本文「なとこえかたき」であるがゆえに不審とし、項目を立てて後勘を期していたが「未勘」に終った。

 「末摘花」
 巻名「末摘花」は、本紙上と継紙上にわたって一筆で書かれる。
 その上に書かれている「伊勘」も本紙上と継紙上にわたって一筆で書かれる。しかも元の文字をなぞってその上に書かれたものか。他諸本「伊行」(書陵部本、松平文庫本等)とある。おそらくは「伊行」とあった上に「伊勘」となぞり書きをしたものだろう。
 16丁オ第1行「書加」の右端一部「加」は、継紙上にかかる。補筆されている。
 16丁最終行「夜深<フケテ>爐<ロ>火尽<ヌ> 霰雪白<シ>紛<フン>々」の「夜」「深」「爐」「霰」「雪」「紛」等の左端一部、継紙にかかる。一筆か補筆か不明。
 以上、「自筆本奥入」の「末摘花」は、「伊行」と記して源氏釈から引用した注記と「書加」と記した定家自身の注記とからなる。「桐壺」「帚木」等と同じ。なお、「書加」とあるが、それは、16丁オ1面の「北窓三友」に関する注記のみで、16丁ウ以下は再び源氏釈からの注記引用である。定家は、源氏釈から引用した注記に対して、「琴詩酒友皆抛我雪月花時尤憶君」に関しては、墨掛点を付けて否定し、「書加」で「北窓三友」を指摘し直している。次に、「伊毛可々度世奈可々度」云々の「催馬楽」の「婦が門」については、朱線で「若紫」巻に移動すべく記しているが、「若紫」「末摘花」の両巻に指摘されるべき注記で、「末摘花」から削除してしまうのは誤り。なお、朱線は両巻にわたってなされているから、「自筆本奥入」における朱筆は、切断成立後の所為であることがわかる。次に、「あらたまの」歌は源氏釈に指摘されていない、定家指摘の和歌である。なお、大島本の付箋ではその前後に「自筆本奥入」の引歌が指摘されているのだが、この歌に関しては引歌が無い。大島本「末摘花」巻の成立はこの事と関連するか。さらに「白雪(白雪$あはゆき)は」歌に関しては、大島本の付箋「白露(露=雪イ)は」とあり訂正以前本文を継承し、池田本の行間注記は「あは雪は」とあって訂正以後本文を継承している。また「求子の哥を」に関して、「此事猶不叶歟」と細字注記を書き加えているが、この注記が反映しているのは、池田本である。奥入諸本及び大島本の行間注記には「春日にてはみかさの山とうたふ」の注記がある。しかし池田本は指摘しない。大島本「源氏物語」が第一次青表紙本、池田本「源氏物語」が第二次青表紙本といわれる根拠を示している。なお他の奥入では「白露(白露=あは雪)は」(書陵部本)は併記、松平本、神宮文庫本は「しら露は」の訂正以前本文である。「夢とこそ」歌も、定家指摘歌。源氏釈では「わすれては(ゆめかとそ思)」(源氏或抄物)歌が指摘されていた。しかし、定家指摘の「夢とこそ」歌も続く第二句は「思へけれと」で、源氏物語本文「夢かとそみるとうちすして」と語句が一致しない。定家は「夢かとそ見るとうちすして」「伊行釈不相叶可勘之」と注記した。既に「わすれては」歌に代えて「夢とこそ」歌を指摘しておいて、今更「伊行釈不相叶可勘之」とは、理に叶わない。定家自身自説に満足できず、なお勘うべきことを記しおいたのではないか。大島本の付箋は「夢とこそ」歌を指摘し、行間注記では「わすれては」歌を指摘する。一方、池田本は「わすれては」歌を行間注記で指摘する。

 「紅葉賀」
 巻名「紅葉賀」は、貼付紙上の裏側に書かれる。
 貼付紙はやや小型の檀紙に似た紙質という(池田亀鑑「大成」)。貼付紙1面(18丁ウ)「一 青海波詠之」以下は定家以外の他筆。
 19丁ウ最終行「いしなやさいしなやうりつくり宇利つくりはれ」は、継紙上に書かれている。墨色は本紙の文字と比較して薄い。
 20丁オ第1行「うりつくりわれおほ」と第2行「之と伊不伊か尓せ无名与也良伊之名」は継紙上に書かれている。墨色は本紙の文字と比較して薄い。
 以上、「自筆本奥入」の「紅葉賀」は、冒頭に「青海波」に関する貼紙を付け、それに「紅葉賀」と題名を付け、以下先行の源氏釈から引用した注記を掲載。ただし、「保曽呂倶世利」の「楽名栢笛右楽也」は定家が若干修正したもの。また「こひしさのかきりたにある」歌や「紅のこそめの衣」は源氏釈にはなく、定家が新に追補した引歌。うち、「つのくにのなからのはしの」歌については、後に第一二句部分と第四句「おい」を墨筆で抹消し「おもふことむかしなからの」「ふり」と訂正する。他の奥入諸本は訂正以前の「つのくにのなからのはしの」「おい」を継承している。大島本は当該箇所に朱合点があるのみだが、池田本の行間注記は訂正後の引歌本文を継承している。その訂正以後和歌は『新勅撰和歌集』所収「よみ人しらず」(1283)歌と同文。この訂正は比較的晩年になされたものであろう。ただ、池田本は「わかれてのゝちそかなしき」の第一句に関して、源氏釈所引歌の「なかれての」の形で指摘しているのが不審。

 「花宴」
 「自筆本奥入」の「花宴」第1葉は、現在欠脱。東山甲本、高野本は欠脱以前に書写されている。高野本(日本古典文学影印叢刊本)によれば、巻名「花宴」は、22丁オは白紙、22丁ウの第1行目に書かれる。
 23丁オの催馬楽「貫川」の「つまをやさくる(る+つ)末はまして留宇留(宇留#)はし之(し&之)加さらは也はきのいちに」の訂正は注記本文と一筆と見られる。

 「葵」
 巻名「葵」は24丁ウに書き付けられている。
 23丁オ第1行「我をおもふ人をおもはぬむくひにや」は継紙上に書かれている。また一部左端は本紙上にかかる。一方、本紙上には切断された元の文字の左端一部の残存が見られる。池田亀鑑は以下「はるやきぬるとうくひすのなく」まで引歌注記は「自筆ニアラズ。紙質異ナル」(池田亀鑑「大成」)とする。しかし、継紙上の補筆は定家自筆ではないか。「人」「むくひにや」には定家自筆の筆癖が見られる。
 23丁ウ最終行「みなれきのみなれそ(て&そ)し(し$)なれてはなれなは」継紙上に書かれているが、後半下部は本紙上に書かれている。ここも池田亀鑑は別人筆とするが、「な」「そ」そしてミセケチ点には定家特有の筆癖が見られる。
 24丁オ第1行「こひしからんやこひしからしや」は継紙上に書かれている。これも池田亀鑑は別人筆とするが、「ひ」「ひしからしや」には定家特有の筆癖が見られる。
 以上、「自筆本奥入」の「葵」は、先行の注釈書「源氏釈」から引歌及び引詩を、人をして書き写さしめ、漢詩文の「長恨哥」及び劉夢得の「有所嗟二首」については定家自身が書いている。切断した後に巻名及び「ひとたまひ 人給 今出車名也/権記多有此名」という故実に関する注記を載せ、併せて切断によって失われた部分を継紙上に補筆した。

 「賢木」
 巻名「榊」は27丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」等と同様の大振りで肉太の筆跡である。
 28丁オ第1行「あまのとをゝしあけかたの月見れは」は本紙上と継紙上に書かれる。また一部は本紙上に残存した部分のを継紙上で補筆する。すなわち「あ」「と」「を」「あ」「け」「の」「月」見」「れ」など。
 28丁ウ最終行「毛沙名尓之加毛 名尓之加毛」も本紙上と継紙上に書かれる。本紙上には切断された折の一部残存が見られる。すなわち、「加毛」である。
 30丁オ陀尾1行「叔父<シクフ>也 於天下亦不<ス>賤<イヤシカラ>矣 然<レトモ>」は、本紙上に書くが、継紙上に切断された元の文字らしき痕跡を残す。補筆とは思われない不自然な痕跡である。この行を含む「於是卒<ツヒニ>相<シヤウタリ>成王 而<シカウシテ>使<シテ>其子」以下の注記はそれまでの筆跡と違って大きな字体である。1面5乃至6行書きで、「葵」の「有所嗟<ナケク>二首 夢<ホウ>得」と同様の筆跡である。後からの追記であろう。
 以上、「自筆本奥入」の「賢木」は、先行注釈書の「源氏釈」から引用しているが、冒頭の「ちはやふる神のいか木も」は定家指摘の引歌。「源氏釈」の「吉川家本勘物」に見られる同文は、「自筆本奥入」からの増補であろう。なお「源氏釈」指摘の「世中のありしにもあらす」歌は「俊頼髄脳」を出典とする。定家はこの和歌は引歌としない。「史記 呂后本紀」は原典に当り直してその抄出であるが、「源氏釈」指摘よりも正確な注釈本文となっている。「ちかきよに 未勘」は行間に書き入れられた筆跡。したがって「源氏釈」から引用後の書き加えである。「山さくらみにゆく道を」歌は定家指摘の引歌。「源氏釈」では催馬楽「高砂」の次に、「和漢朗詠集」丞相の江相公の詩句を指摘しているが、「自筆本奥入」では催馬楽「高砂」を注記した後に続けて「史記魯世家」と記して、約4行の空白を残して、その裏面に「源氏釈」指摘の丞相の江相公の詩句を書く。後に「史記魯世家」を確認したところ、その空間には収まりきれないことを知り残りの余白に8行で書いている。そして注記文の頭に墨線によって「史記 魯世家」の次に移動すべき印を付けている。

 「花散里」
 「自筆本奥入」では「花散里」は欠脱。高野本(日本古典文学影印叢刊本)による。31丁オ第1行に「花散里」と書かれていたようである。この面、巻名と引歌3首、全7行で書かれている。初めの2首は「源氏釈」からの引用、第3首目の「橘のかをなつかしみ」歌は定家の指摘。

 「須磨」
 巻名「陬麻」は32丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」「榊」等と同様の大振りで肉太の筆跡である。
 33丁オ第1行「わくらはに問人あらはすまのうらに」は継紙上の後補筆。
 33丁ウ最終行の本文抄出「△…(約7字分)…△涙△△れける」は切断による不明箇所有り。
 34丁オ第1行の右側に切断による約1行分の痕跡が見られる。33丁ウは1面約10行書き、34丁オは1面9行、よって1行分が失われている勘定。補筆されなかった。
 「自筆本奥入」の「須磨」の注記は、それまでの在り方と違った形式。すなわち、本文抄出して引歌等の注記を記すという形式。これは「書加之」「注加」などとあったような、定家の注記部分における形式を最初からとっているものである。
 例えば、冒頭「いへはえに」歌は、「源氏釈」では未指摘、定家初指摘。次に「ことなしにて」と本文抄出して、「きみみすて」歌も定家指摘の引歌。そして「源氏釈」指摘の「あひにあひて」歌を越えて、第4番目の本文抄出「時しあれは」に関しては、約1行分の空白、未勘。以上のように、本文抄出して引歌を注記しようとする態度である。「三千里外」「いける世にとは」「せきふきこゆる」「たゝこれ西にゆくなり」などは、「源氏釈」に指摘があるが、適切でないとして引用せず、後勘を期したものである。なお定家指摘の「白浪はたちさはくともこりすまの」歌は、この上句は元の文字を摺消して重ね書きしたものに見られる。なお、切断による不明箇所のある「△…(約7字分)…△涙△△れける」は、大島本「源氏物語」の奥入によれば「うれしきにもひとつなみたそこほれけり」とある。漢字と仮名の表記の相違もあるが、「自筆本奥入」の切断部分とほぼ一致する。「自筆本奥入」では、34丁オ第1行の右側に切断による約1行分の痕跡が見られるのだが、全く判読不能。補筆されていない。大島本「源氏物語」の奥入にも未指摘となっている。ただ、池田本「源氏物語」の行間注記に「うれしきもうきも心はひとつにてわかぬ物はなみたなりけり」とある。切断されて補筆されなかった引歌注記とはそれであったか。

 「明石」
 巻名「明石」は35丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」「榊」「陬麻」等と同様の大振りで肉太の筆跡である。
 35丁ウ最終行「自筆本奥入」は切断により全く判読不能。わずかに右端の文字残存痕跡が残る。東山乙本によれば「たかゝとさしていれぬなる覧」とある由である(池田亀鑑「大成」)。
 36丁第1行「伊勢の宇美乃 支与支名支左尓」は「勢」「宇」乃」与」「支」などの右端一部切れる。継紙上に補筆跡が見られる。
 37丁オ第1行「日本世紀 <故略之>」の右側には朱筆で何か書かれていたが、切断によって判読不能。
 37丁ウ最終行「同<ク>是<コレ>天涯<カイニ>淪<リン>落<セル>人<ナレハ> 相<ヒ>悲<シフコト>不<ヘス>必<シモ>曽<ムカシ>相識<レルノミナラム>」は、左半分が切断により継紙上に補筆される。
 38丁オ「尋陽小<スコシキナル>処<所>無<シ>音楽 終<ヲフルマテニ>歳不聞<キカ>糸<シ>竹<ノ>声」と「今夜聞君琵琶語 如<シ>聴<キク>仙楽<カク>耳暫<シハラク>明<ナリ>」との間に約2行分の空白があるのは、実は『白氏文集』「琵琶引」の原文を八句省略したことによるのであろう。
 38丁ウの「まくなき」は、結局「可尋勘 但凡俗之詞有之云々」と終った。しかし、「源氏釈」指摘の「[秋+山]叔<ケイカウ>夜夢伶人教広陵散」に関しては、「晋書[秋+山]康伝」より指摘し直した。
 以上、「自筆本奥入」の「明石」は、先行注釈書「源氏釈」から引用しつつ、適宜、追加したり差し替えたりしている。すなわち、「ありぬやと心見かてら」「まきのとをやすらひにこそ」歌は定家の追加。また「久方のつきけのこまを」も追加歌であるが、行間に書き加えられているので、これは後からの追加である。「日本世紀 <故略之>」注と「わすらるゝ身をはおもはす」歌との間に約4行分の空白があるが、これは「ひるのこ」に関する注記が長くなるだろうとして余裕をとっていたところ、全体が3行で終ってしまったための見込み違いの余白であろう。そしていったん完了して後にもさらに注勘を続け、「あき人の中にてたにふることきゝはやす」以下の「文集 琵琶引」と「晋書[秋+山]康伝」を新に指摘したりまた「可尋勘」のままに終った。ただし、それは37丁最終行の継紙上に補筆が見られることから切断される以前になされたものである。

 「澪標」
 巻名「[水+口+耳+戈]盡」は39丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」「榊」「陬麻」「明石」等と同様の大振りで肉太の筆跡である。
 池田亀鑑「大成」によれば、「明石」と「澪標」の間、「高野本奥入」によれば「此ツキメナシ」と細字で注しているそうである。
 「源氏釈」指摘の引歌2首を引用し、その次に「しまこきはなれ」の本文抄出し、後勘を期したが、未勘に終っている。

 「蓬生」
 巻名「蓬生」は40丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」「榊」「陬麻」「明石」「[水+口+耳+戈]盡」等と同様の大振りで肉太の筆跡である。おもしろいことに、その墨が「澪標」の注記の39丁ウに付いている。切断後に製本し巻名を書き加えた折にそれが反対紙面に写ったものである。
 40丁ウ第1行「あけまき わらはの惣<ソウ>名也」はやや細字、よって後から書き加えられた注記であろう。
 40丁ウ最終行「みさふらひみかさと申せ宮木のゝ」は、「自筆本奥入」は切断のため不明、東山乙本による(大成)。
 41丁オ第1行「いとゝこそまさりにまされわすれしと」は、本紙から継紙にわたって書かれている。本紙上に切断された文字の一部が残存している。すなわち「い」「と」「に」など。墨色も下句「いひしにたかふ事のつらさは」と異なるので、この1行は切断後の補筆である。
 以上、「自筆本奥入」の「蓬生」は「源氏釈」から引用し、その後に「あけまき」の注記を加えたり「若又三道宝階歟」を削除したりしている。

 「関屋」
 巻名「関屋」は、「自筆本奥入」には現在欠脱している。「高野本」による。それによれば、42丁オに書き付けられている。「箒木」「紅葉賀」「葵」「榊」「陬麻」「明石」「[水+口+耳+戈]盡」等と同様の大振りで肉太の筆跡のようである。
 「自筆本奥入」の「関屋」では「源氏釈」指摘の引歌及等について、「可尋 こひそつもりてふちとなりける 此哥不叶此心 峯のもみちはおちつもり 又不叶」と注記している。

 「絵合」
 巻名「絵合」は、注記ナシということで、43丁オ「松風」巻末に「松風」の「奥入」の前に「絵合 指本文不見歟」とある。

 「松風」
 巻名「松風」は「絵合 指本文不見歟」と共に書かれている。
 45丁オ第1行「おのゝえはくちなは又もすけかへむ」は右半分切断のため継紙上に補筆されている。下句「うき世中にかへらすもかな」とは筆跡、墨色が異なる。
 46丁オ第1行「斉<セイ>威<ヰ>王二十四年与魏<クヰ>王<ト>会<クワイシ>田<カリス>於」の振り仮名は全て継紙上に書かれているので、切断後の補筆。
 45丁オ第1行「徒<ウツテ>而従<シタカウ>者七千余<ヨ>家臣有」の振り仮名も継紙上に書かれている切断後の補筆か。
 以上、「自筆本奥入」の「松風」は、「源氏釈」から引用した後に、「夜光玉」の注記を指摘している。その際に、和歌と漢詩文に関しては様相が異なる。仮名はいかにも定家風の書体だが、漢詩文に関する部分を書写していないいのは、あるいはこの仮名書きは女性であったか。漢詩文の注記は後からの注記であろう。

 「薄雲」
 巻名「松風」は「絵合」「松風」同様に大きく肉太で書かれている。
 47丁ウ最終行「乎 止万知川久礼留 見天可安(安#)戸利」は切断により「知」「久」「礼」の左端に一部欠けた痕跡を残す。
 48丁オ第1行「己牟也 曽与也 安春可戸利己牟」の「己牟也」は切断により一部欠けたままだが、「曽与也 安春可戸利己牟」の右半分は継紙上に補筆されている。
 「自筆本奥入」の「薄雲」は、「源氏釈」から引用し、就中「晋<シンノ>石季倫<セキキリム>居<オリ>金谷<ニ>春花満<チテ>林<ニ>」云々の注記に関しては、その初めから疑念をもっていたか、次の注記「梅かゝをさくらの花に」歌との間に約5行分の空白を残している。そして「此事不叶可勘」と頭欄外に書き記しているが、未勘のままに終っている。

 「朝顔」
 巻名「あさかほ」は「薄雲」の注記の裏面に「絵合」「松風」同様に大きく肉太で書かれている。
 50丁オ第1行「こひせしのみそきは神もうけすとか人を忘る罪深し」は、切断により「人を」は一部欠けたままだが、「神」「け」「す「か」「忘」る」深」「し」は継紙上に補筆されている。
 「自筆本奥入」の「朝顔」は、他巻と違って、和歌を一行書きで書いている。「源氏釈」から引用し、さらに「世俗しはすの月夜といふ」と新たな注記を加え、一方、引用した和歌「たまさかにゆきあふみなる」歌には、「此哥強不可入歟」と頭欄外に書き記している。

 「少女」
 巻名「未通女」は「朝顔」の注記の裏面に「絵合」「松風」「朝顔」同様に大きく肉太で書かれている。
 51丁オ第1行「孫康<ソンカウ>家貧<マツシユウシテ>無油<アフラ>常映雪<ニ>読書<エイシテ文ヲヨム>」は切断により右半分が継紙上に補筆されている。
 51丁ウ最終行「試<ノ>衆捐<イウシテ>立仮<ヘンニ>允又仰云敷居<シキヰ>に試<ノ>衆捐<イウシテ>」は切断により「仰」は左端一部欠けたままだが、「試」「捐」「仰」「試」の左端は継紙上に補筆されている。
 52丁オ第1行「於<テ>敷居<ノ>下<ニ>脱<ヌイテ>沓<クツヲ>着座置<ヲク>帙<チゝ>置<ニ>頭仰云」は切断により右半分継紙上に補筆されている。
 52丁ウ最終行「琴而鼓之徐動宮微揮角羽終成曲孟甞君」は切断により左端一部切れる。継紙上に補筆せず、墨線で抹消し、53丁オに改めて大きく二行書きに訓点を付けて記す。
 「自筆本奥入」の「少女」は、「源氏釈」から引用し、51丁オ1面に書く。その裏面から52丁裏面、本文抄出して注を書き加えている。ここまでが切断される以前に存在していた注記。そして切断の際に切り取られてしまった部分を継紙上に補筆したが、53丁表面の注記は切断後に、次巻「玉鬘」巻の末尾本文紙上に改めて書き加えられたものである。

 「玉鬘」
 巻名「玉鬘」は「少女」の注記と同面に「絵合」「松風」「朝顔」「少女」同様に大きく肉太で書かれている。
 54丁オ第1行「三とせになりぬあしたゝすして」は切断により「になりぬあしたゝすして」の右端が欠ける。しかし継紙上に補筆せず、本紙上に改めて書き記している。前巻「玉鬘」と同様のやり方である。
 「自筆本奥入」の「玉鬘」は、「源氏釈」から引用し、就中「世中にあらましかはと」歌については、引用した後に「非源氏以前哥歟不可為後本哥」という注記を行間に書き加えている。また本文抄出「われはわすれす」の位置は適切でなく、かつ未勘のままに終っている。

 「初音」
 巻名「はつね」は「初音」巻尾本文の裏面の冒頭第1行に書かれている。たまたま書き加えるだけの余裕があったことによろう。
 55丁最終行「左支久左乃 安波(波+れ)左支久左乃」は切断により「安」「波」「左」久」の左端が一部切れたままになっている。
 56丁第1行「波礼左支久左乃 美川波与川波乃」は切断により右半分が切られ継紙上にその欠損部分が補筆されている。
 56丁最終行「為絃管座南廊小板敷東々上敷畳立机為打熨」は継紙上に書かれている。切断による欠損は終りから2行目の「為哥頭已下舞人以上座相対北為上仁寿西階南立床子為」の「為」「哥」「為」「仁」党の左端が欠損したまま、「西」「階」は継紙上に補筆されている。
 57丁第1行「斗持嚢座又有諸司二分吹管者同着之同壁下北面西」は継紙上に書かれている。第2行「上為△(△#殿上)侍臣座内蔵舁四尺台盤三基立舞人已上座八尺台盤一基」は切断により右半分が継紙上補筆されている。冒頭「上為」の2字が欄外にはみ出して書かれ、次の文字を墨滅して右側に「殿上」と訂正しているのは補筆の際に直前の1行の字詰めを誤ったからであろう。
 「自筆本奥入」の「初音」は、55丁ウ第2行「あふみのやかゝみの山を」歌から56丁ウ第1行「みつむまやとは 水駅<エキ>といふ詞也」までは、「源氏釈」の注釈を踏まえながら批判的に発展させた部分。そしてさらに「踏哥儀 新儀式 正月十四日」の故実を書き加えた部分から成っている。

 「胡蝶」
 「自筆本奥入」は「胡蝶」を欠脱している。「高野本」による。巻名「胡蝶」は「はつね」同様に裏面の冒頭第1行に書かれている。
 「高野本奥入」の「胡蝶」は、「源氏釈」の注釈を踏まえながら批判的に発展させて出来上がっている。59丁ウの催馬楽「青柳」の注記は後から指摘したので、墨線で58丁ウの「楽府」の「海漫々」詩と「わかそのゝ」歌との間に入るべく記している。

 「蛍」
 「自筆本奥入」「東山本」「高野本」すべてにナシ。「源氏釈」には2条の引歌指摘がある。神宮文庫本「源語古抄」、松平文庫本等「源氏物語奥入」諸本には存在する。「大島本源氏物語」の奥入にはナシ。よって、初めから存在しなかったのではなく早い時期に欠脱したものであろう。「大島本源氏物語」の「奥入」は欠脱後の成立か。

 「常夏」
 巻名「とこ夏」は、「はつね」「胡蝶」同様に、表面を白紙で残した裏面の注記部の冒頭第1行に書かれている。
 61丁お第1行「つくは山はやましけ山しけゝれと」は、継紙上に書かれている。切断痕跡として「く(久)」の左端一部が本紙上に残存している。
 「自筆本奥入」の「常夏」は巻名「とこ夏」から「書加」まで墨跡、墨色から一筆で書かれている。「書加」が指示するのは「わかやとゝたのむよしのに」歌のみで、以下は「源氏釈」注記を踏まえた注勘である。61丁表面の後半の行間がやや詰まった感じに書き込まれ、その裏面が白紙のままになっているのは、60丁オの催馬楽「ぬきかは」の歌句を書くつもりでいたものか。

 「篝火」
 「自筆本奥入」「東山本」「高野本」すべてにナシ。「源氏釈」には2条の引歌指摘がある。神宮文庫本「源語古抄」には1条のみ存在し、松平文庫本等「源氏物語奥入」諸本にはナシ。「大島本源氏物語」の奥入にはナシ。しかし「池田本源氏物語」の奥入には2条存在する。よって、初めから存在しなかったのではなく早い時期に欠脱したものであろう。「大島本源氏物語」の「奥入」は欠脱後の成立、「池田本源氏物語」は存在していたころの成立か。

 「野分」
 「自筆本奥入」は、紙質を異にし、「東山本」は63丁裏に貼紙として添付されているという(池田亀鑑「大成」)。巻名「野わき」の「野わ」は元の文字「みゆ」の上になぞって「野わ」と書く。
 「自筆本奥入」は、初め「源氏釈」の注記から2首引用し、後からその間に「宮きのゝもとあらのこはき」歌を書き入れている。そして本文抄出「いつこのゝへのほとりの花」に関する引歌は未指摘のままに終った。

 「行幸」
 「自筆本奥入」は、巻名を「野分」と同面に書く。よって、「行幸」の注記とは紙質を異にし、「東山本」では63丁裏に貼紙として添付されている(池田亀鑑「大成」)。
 63丁最終行「記或付故老口語而行事」の「記或付」は切断により左端が欠損し、継紙上に補筆されている。
 64丁第1行「乗輿出朱雀門留輿砌上勅召太政大臣」の行右半分は切断により継紙上に補筆されている。
 「自筆本奥入」の「行幸」は、「源氏釈」から引歌1首を引用し、その後に芹河野行幸に関する「仁和二年十二月十四日」故実を指摘する。およそ1面に12行書の記し方は、「初音」巻の「踏哥儀 新儀式 正月十四日」記事(1面12行書)と同じで、最もびっしり詰めた書き方である。

 「藤袴」
 巻名「藤袴」は、「行幸」巻の注記裏面に書かれる。字体は「野わき」「みゆき」と同大である。
 「自筆本奥入」の「藤袴」は、「源氏釈」から2首引用し、その後に2項目本文抄出して注記を加えようとしているが、うち1項目は未勘に終っている。

 「真木柱」
 巻名「真木柱」は、「真木柱」巻尾本文と注釈の間の余白に書き加えている。
 66丁ウ最終行「おもはぬ方になひきにけり」の「お」と「ぬ」は、切断により左端の一部が切れたままになっている。
 67丁オ第1行「乎志多加戸加毛左戸支井留波良乃伊」の右側には切断によって切り取られた文字の一部が残存している。題名「風俗」とあったか(池田亀鑑「大成」)。
 「自筆本奥入」の「真木柱」は「源氏釈」から引用しながらそれに自説を加えて出来上がっている。すなわち、冒頭第1項の「おもひつゝねなくにあくる」歌は定家、書き加えの注記。第3項の「もゝちとりさえつるはるは」歌は以下の句は省略。第8項の「いはぬまをつゝみしほとに」歌も定家、書き加えの注記。最終第9項の「ほり江こくたなゝしをふね」歌は「源氏釈」に初句「いりえこく」とあった歌を「ほり江こく」と改めたものである。

 「梅枝」
 巻名「梅枝」は、「梅枝」巻尾本文の面の余白上部に書き加えている。「真木柱」巻と同様である。
 68丁ウ最終行「ありぬやと心みかてらあひみねは」の「あ」「ぬ」「や」「心」「か」「あ」「ね」は切断により左端の一部が切れたままになっている。
 「自筆本奥入」の「梅枝」は「源氏釈」から引用しながらそれに自説を加えて出来上がっている。すなわち、冒頭第1項の「君ならてたれにか見せむ梅花」歌と第4項の「ありぬやと心みかてらあひみねは」歌は上句のみ引用して下句は省略。ただ、後者については最終行のため下句が切断されたままになっている可能性もある。第1項と第2項の催馬楽歌との間に約2行分の空白があるのは題名を書き入れるべく残していたものか。

 「藤裏葉」
 巻名「藤裏葉」は、「藤裏葉」巻尾本文の面の余白に書き加えている。「真木柱」「梅枝」巻と同様である。
 70丁ウ最終行「天不己春止」は継紙上の補筆。
 71丁オ第1行「々(△&々)止乎於也尓末宇与己之末宇之△(△#々)」は切断により本紙上と継紙うえに書かれている。冒頭第1字は本紙上に元の文字を摺消した上に重ねて「々」と書かれている。「於」「也」「之」は残存一部と補筆とが併存している。
 72丁第1行「うたのほうし 和琴の名也」は、「自筆本奥入」では切断によりほとんど見えないが、「東山乙本」による(池田亀鑑「大成」)
 「自筆本奥入」の「藤裏葉」は、70丁裏第1項の「夏にこそさきかゝりけれ」歌から71丁オ最終行「せきのあらかき」まで「源氏釈」から引用、1面11行書きで記されている。次いで、71丁裏面から本文抄出して注を書き加えるという形式に変わり第6項の「かつらをおりし」から72丁裏面の第11項の「宇陀法師」の注記まで、定家が書き加えた注記である。1面10行書きで、「源氏釈」引用の場合よりやや大きめの字体で漢文が書き記されているのが特徴。第7、8、10項の和歌3首も定家の指摘である。73丁表面の「或記」の「宇陀法師」に関する更なる注記4行は、「若菜」注記の表面に書かれている。とすると、「自筆本奥入」の分冊後に書き加えられた最も新しい注記部分か。

 「若菜(上下)」
 巻名「若菜」は、「若菜」の注記の表面でかつ「藤裏葉」注記後の余白の同面に書き加えられている。「自筆本奥入」では「若菜」を上下に分かたず、ただ「若菜」とあり、下巻では十分に巻名を書ける余白があるにもかかわらず、巻名を記さない。すなわち巻名としては「若菜」であり、実際の冊子本の形態では、2分冊されていた。それは「自筆本奥入」の「若菜(下)」の注記が「若菜(上)」の注記と一続きでなく、表面を空白にして、裏面から始まっていることによってわかる。おそらく、その題簽には「若菜(上)」「若菜(下)」とあったものであろう。巻名と本の形態とは、本来別であったのだ。それを連動させて、後世の人は「若菜上」「若菜下」と巻名としたのである。ここでは、上下を一括して扱う。
 「自筆本奥入」の「若菜(上)」は、74丁1面が欠脱している。「高野本」によって補う。
 「若菜(下)」の注記は、76丁裏面から始まる。表面は空白である。
 76丁ウ最終行「うくひすさそふしるへにはやる」の1行は、切断により左半分が欠損しているが、補筆されないままになっている。
 77丁オ第1行の小字書き加えによる「ふしまちの月十九日の月な」は、切断により、右端の一部が欠損したままになっている。
 「自筆本奥入」の「若菜(下)」は、76丁裏第1項の「けふのみと春をおもはぬ」歌から77丁ウ最終行「中かきよりそ花はちりける」まで「源氏釈」から引用、1面ほぼ11行書きで記されている。次いで、78丁オの「わかなのまき一の名もろかつらから」という巻名に関する説と79丁裏面までの漢文注記(1面5行書き、8行書き)は定家の書き加えた注記である。

 「柏木」
 巻名「柏木」は、「柏木」の巻尾本文が、80丁の表裏両面に書かれ、裏面の注記との間に約2行分の余白があるにもかかわらず、それよりも狭い表面の末尾余白に書き加えられている。
 81丁オ第1行「なけきわひいてにしたまのあるならむ夜ふかく見えは」の行右半分は、切断により欠損したままになっている。
 81丁ウ最終行「てつくりける詩也」は切断により見えず。「東山甲本」「東山乙本」「高野本」による(池田亀鑑「大成」)。
 「自筆本奥入」の「柏木」の和歌は原則1行書きで、書き切れない場合は、下方に2行目を書いている。80丁ウの第1項の「うくも世の思心に」歌から81丁オの最終行の第9項「天<ノ>与<クミスル>善<セン>人<ニ>吾<ワレ>不<ス>信<シンセ>右将軍<カ>墓<ツカニ>草初<テ>青<シ>」まで、「源氏釈」からの引用を中心にした部分。第6項「とりかへす物にもかなや」歌と第7項「春ことに花のさかりは」歌の間に、約5行分の空白を設けたのは、後から「文集五十八自嘲詩云」を注記すべく残してものであろう。81丁ウは1面8行書きのやや大きめの字体で漢詩文と解説文を書いている。

 「横笛」
 巻名「横笛」は継紙上に書き加えられている。
 「自筆本奥入」の「横笛」は、「源氏釈」から引用し、定家は「かたいとをこなたかなたに」歌を追加指摘している。第1項の引歌は上句のみ、第2項の引歌は初句と第2句のみ指摘、他の引歌は2行書き、催馬楽「妹と我」は仮名で3行書き、以上、1面13行書きである。裏面の「柏木の後年也」は字体が大きく表面の注記とは異時の書き加えである。

 「鈴虫」
 巻名「鈴虫」は本紙上に大きく書き加えられている。
 84オ第1行「但如経文者堕餓鬼中仍七月十五日」の「如」「経」「文」「餓」は右端が一部欠損したままになっている。
 「自筆本奥入」の「横笛」は、「源氏釈」から引用し、冒頭の「十方仏土之中以西方為望九品」云々の仏説(出典未詳)を追加指摘している。「横笛之同年夏秋也」の墨色・筆跡は注記の字体とほぼ同じである。

 「夕霧」
 巻名「夕霧」は、表面左上に大きく書き加えられている。「鈴虫」と同大である。
 「自筆本奥入」87オ・87ウの1丁(現行81丁)は、「早蕨」1面の誤綴である。
 89丁オ第1行「行<テ>迎<ムカフ>太子<ヲ>々々<ノ>曰<ク>我昔先<サキノ>身<ニ>為<ナテ>国」は切断により、振り仮名部分が切り落とされ、継紙上に補筆されている。また「我昔先」の右端も切断により欠損しているが「身」のみ継紙上に補筆されている。
 「自筆本奥入」の「夕霧」は、85丁ウ第1項に「伊行」と注記して「かへるさの道やはかはる」歌以下、86丁ウ最終行の第13項の「いひたてはたかなかおしき」歌までを指摘するが、うち、第4項の「身をすてゝいにやしにけむ」歌と第12項の「夏の夜はうらしまのこか」歌は、丁かの追加注記である。1面に1首を2行書きで4首書くという8行書きのゆったりとした行取りであるが、86丁ウは5首10書き、ただ全半はゆったり後半が詰まった感じである、最後の第13項の「いひたてはたかなかおしき」歌は、「伝顕昭筆源氏釈切」にある歌である。以上までが第1段。その後に第1項の引歌について、「此哥同時人也不可為源氏証哥」と、墨色薄く小字による書き加えている。さらに本文抄出「無言太子とか」と記して、「波羅奈王之太子其名休<キウ>魄<ハク>容<カタチ>端正<ハシ>」以下、1面8行書きの仏説を記載している。ここまでが第2段。そして、その注記に切断跡が認められるので、本体から分離される以前に書き加えられた注記であることが分かる。本体から分離して以後書き加えられた注記に巻名「夕霧」があり、そしてそれに関連した「今案此巻猶横笛鈴虫之 同秋事歟」という注釈が付け加えられたと考えられる。「横笛」「鈴虫」の年立に関する注記と一連のものである。以上が第3段である。

 「御法」
 巻名「御法」は、注釈面右端に書き加えられている。
 「自筆本奥入」の「御法」の注記は、「源氏釈」から引用したものである。丁かの書き加えは、「此巻 夕霧之後年歟」の部分である。「横笛」「夕霧」の年立い関する注記と一連の同筆跡である。

 「幻」
 巻名「幻」は、注釈面右端に書き加えられている。薄墨色で後からの書き加えであることは明瞭。
 92丁ウ最終行「いにしへの事かたらへは郭公」は、切断により左端の一部が欠損している。
 93丁オ第1行「いかにしりてかなくこゑのする」の右半分行、切断により欠損したままになっている。
 「自筆本奥入」の「幻」は、92丁ウ第1項の「おほそらにおほふ許の」歌から93丁オ最終行の第10項「神な月いつもしくれは」まで、「源氏釈」からの引用。1面9行書きである。93丁ウの第11項「なにゝきく色そめかへし」歌から本文抄出「うなひまつ 未勘」までは、定家の書き加えである。その引歌の入るべき位置、また表面までの筆跡のとは異なった整った字体などから明らかである。

 「匂兵部卿宮」
 巻名「廿七 兵部卿宮」は、表面に大きく書かれている。続いて「このまき一の名かほる中将」とあるのは「桐壺」巻と同様。巻名と共に後から書き加えられたものである。なお、巻序「廿七」はさらにその後に書き加えられたものか。
 94丁ウ第1行「ぬしゝらぬかこそにほへれ秋のゝに」は、裏面第1行だから本来切断による損傷を被らないじはずなのに、「ぬ」「ぬ」「れ」「秋」「の」「に」などの右端が欠損している。ということは、本来表面であったものを裏面に綴じ替えたものか。
 96丁オ第1行「賭射還饗」は、本紙と継紙上にわたって書かれている。切断による文字の補筆ではなく、一筆で書かれたものか。
 「自筆本奥入」の「匂兵部卿」は、95丁裏の冒頭に「伊行」と書き付けているが、実は94丁ウの注釈第1項「ぬしゝらぬかこそにほへれ秋のゝに」歌も「源氏釈」指摘の引歌である。注記の順序からいえば、「伊行」とある、抄出本文「太子のわか名をとひえけむさとりもえてしかなと」の注釈が最初に来るべきもの。つまり、本来は95丁裏面が最初でそれに94丁裏面が表面として続いていたのを誤って綴じたものである。以上までが「源氏釈」からの引用をもとに出来上がった注釈部分。その後、一旦引用した「源氏釈」説に対して「此文心/不審不叶歟/可尋」という注勘を加えている。次いで、定家が書き加えた注記は「賭射還饗」と「多久行」云々の別筆の貼紙である。

 「紅梅」
  「自筆本奥入」は「紅梅」1葉を欠脱している。「高野本」による。巻名「紅梅」は、注釈面右端に書かれている。
 「自筆本奥入」の「紅梅」は「源氏釈」からの引用部と、本文抄出「かわふえ」の注記部とから成る。

 「竹河」
 巻名「竹河」は、巻尾本文と注釈の間の余白に書き加えられている。
 「自筆本奥入」の「竹河」は、「源氏釈」からの引用に定家の追加注記を加えて出来上がっている。すなわち、第1項の「楽府上陽人」と第4項の「花のかを風のたよりにたくへてそ」歌、第9項の「さくらいろに衣はふかく」歌は定家の書き加えである。そして、初め「此巻不一見以人令読合」と記しておいて、後に墨線で抹消しているのは、定家の覚書で、後に自ら「一見」したからであろう。
 99丁表面の「楽府上陽人」3行と11丁オの最終11項注「季札為使向上国路逢徐君」を墨線で抹消し、その裏1面に「季札之初<メ>使<ツカヒタル時ニ>北<ノ方>過<ヨキレリ>徐君々々好<コノム>」以下の7行の注記は、他とは違った墨跡、字体である。予めとってあった余白に書き加えられた注記であろう。なお。ここでも「多久行」の「一 踏哥曲」云々の貼紙を貼付している。

 「橋姫」
 巻名「優婆塞 一名橋姫」は、「竹河」に貼付された紙の裏面に書き加えられている。104丁表面には注釈が右端から始まって書き加える余地がなかったためである。
 「自筆本奥入」の「橋姫」は、「源氏釈」からの引用の上に、「不可然」や「此等事可否難弁」の注勘を加えている。第4項の「雁の行峯のあさきりはれすのみ」歌は、筆跡、字体などの相違から後からの書き加えである。
 末尾の「このまき 一の名うはそく」は、筆跡、字体等から、引歌注記とは異なった時点での注記である。ではいつの時点か。墨線で抹消しているので、抹消される以前、抹消は巻名を「竹河」巻の貼付紙面に「優婆塞 一名橋姫」と関連しよう。そこでは「優婆塞」が「一名」から本名へと逆転している。しかし現行では「橋姫」で定着している(明融臨模本「橋姫」)。

 「椎本」
  「自筆本奥入」は「椎本」1葉を欠脱している。「高野本」による。巻名「椎本」は、注釈面右端に書かれている。
 106丁オ第1行「ゝのくま日の河にこまとめて」は、切断により「さ」「の」「の」「河」「め」「て」は右端が欠損したままになっている。
 「自筆本奥入」の「椎本」は、「源氏釈」の説を引用した部分から成り立っている。

 「総角」
 巻名「総角」は、表面を空白にして裏面の注釈冒頭部の余白にやや大きめの字体で書き加えられている。
 「自筆本奥入」の「総角」は、107丁裏面から114丁表面まで全8葉に14面にわたって書かれている。うち、107丁ウ第1項の「身をうしと思ふにきえぬ」歌から113丁オの第32項の「いかて猶つれなき人に」歌まで、「源氏釈」を踏まえながら、それを否定したり、一部訂正したり、さらに新たに注を加えたりして出来上がっている。和歌・仮名書き部は、1面約10行書きで記すが、漢詩文・漢字部では1面約7行書きの行間取りで書かれている。109丁オの注記では「いその神ふるの山さと」引歌を除いて、他4首は上句のみ指摘して、下句部分を余白にしているが、その他、後から書き入れるべく余白を残しているような間断なく書かれている。108オ第6項の「王昭君 朝綱卿」と第7項の「<文集> 晨鶏再<フタゝヒ>鳴<テ>残月没<インヌ>征馬連<シキリニ>嘶<テ>/行人出」は書き加え注。110丁オの第25項の「楽府 李夫人」注は、「源氏釈」に簡略に指摘されていたものを原典に当って引用したもの。延べ5面にわたって書かれているが、次の第26項の「あすしらぬわか身と思へと」歌から再び「源氏釈」からの引用に基づく注記である。その間に約1行程度の余白があるが、少し間を空けたものであろう。113丁表面は2行書いて、後は空白のままにして、113丁裏面の「伊勢集」以下、10行書きで行間の取り方こそそれまでと同じであるが、1行の字詰めが詰まりやや小さめの字体で書かれている。しかもこの注記は、107丁ウ第2項の「よりあはせてなくなるこゑを」歌の再注記である。その和歌について出典の「伊勢集」からその詞書を2面17行にわたって書き記している。

 「早蕨」
 巻名「さわらひ」は、表面の巻尾本文の後の余白約4行分を残して、裏面の注釈冒頭部の余白にやや大きめの字体で書き加えられている。「総角」巻と同様である。
 115丁ウ最終行「さ月まつ花たちはなのかをかけは」の「さ」「花」「の」「か」などの左端一部が欠損したままになっている。
 115丁ウの第4項の「今そしるくるしき物と」歌については、「源氏釈」から引用したものの、本文「やとをはかれし」と歌中の語句「さとをはかれす」とが合わない疑念から、行間にその本文を抄出して、「未勘」と記している。
 「自筆本奥入」の「早蕨」の「さ月まつ花たちはなの」歌以下「うへて見しぬしなきやとの」歌までの1面8行は、現在誤って「夕霧」巻に綴じられている。

 「宿木」
 巻名「やとり木」は、表面を空白にして裏面の注釈冒頭部の余白にやや大きめの字体で書き加えられている。「総角」「早蕨」巻と同様である。
 120丁ウ最終行「ありとやこゝにうくひすのなく」の「あ」「や」「の」「な」は切断によって欠損したままである。
 「自筆本奥入」の「宿木」は、116裏面から121丁裏面まで、全6葉11面にわたって書き記されている。120丁ウの最終行の切断の痕跡から、切断以前から存在していた注記と考えられる。116ウと117オの注記には欄外頭注に「伊行」(2例)「伊已下」とあるが、基本的に「源氏釈」かrの引用と自らの注勘によって出来ている、注釈の順序にしたがって「源氏釈」が指摘していなくて、出典のありそうな語句に関しては、本文抄出して、約1行の余白を残して、後に注すべく記している。引歌・仮名書きを中心とした面は9から10行取り、漢詩文・漢字を中心とした面では6から7行取りである。121オの第31項の「楊貴妃のかむさしのこと」は仮名書きの「ー事」書きである。そして最終第32項の「於御前奏人々名事」は1面11行取りで1行中もやや小字の詰まった書き方である。

 「東屋」
 巻名「あつまや」は、表面を空白にして裏面の注釈冒頭部の余白にやや大きめの字体で書き加えられている。「総角」「早蕨」「宿木」巻と同様である。
 122丁ウ最終行「なき名はたてゝたゝにわすれね」の「き」「名」の左端は切断によって欠損したままとなっている。1面8から9行書きの行取りで、和歌を2行書きにする。すべて「源氏釈」にある注釈である。定家は墨筆と朱筆で後からさらに注すべき本文を抄出して行間に書き入れをしている。

 「浮舟」
 巻名「うき舟」は、「東屋」の注釈の終り余白にやや大きめの字体で書き加えられている。
 124丁オ第1行「こひしくはきても見よかしちはやふる」の「る」は切断により右端の一部が欠損したっまとなっている。
 124丁ウ最終行切断により見えない。わずかに右端の一部の痕跡が残っている。
 125丁オ第1行「ゆくふねのあとなき波にましりなは」は切断により判読不能、東山乙本による(池田亀鑑「大成」)。
 125丁ウ最終行「飼置天臨食物相具屠所歩」の「飼」「相」「屠」「所」の左端は切断及び紙継により一部欠損したままとなっている。
 126丁オ第1行「行也随歩死期近 以之世間」の「行」「随」「歩」「死」「期」「近」「以」「世」「間」の右端は切断及び紙継により一部欠損したままとなっている。
 「自筆本奥入」の「浮舟」は、1面約10行書きの行取りになっている。すべて「源氏釈」にある注釈である。最後の第19項「けさうする人のありさまのいつれとなき」以下3行の注記がややそれまでの筆跡とは違ってやや細い線の筆跡である。併せて、朱線で「君にあはむその日は」歌と「わかこひはむなしきそらに」歌との間に移動すべく記している。後から書き加えられた注記であろう。

 「蜻蛉」
 巻名「かけろふ」は、表面の巻尾本文の余白を大きく残してその裏面の注釈冒頭部の余白にやや大きめの字体で書き加えられている。「総角」「早蕨」「宿木」巻と同様である。
 「自筆本奥入」の「蜻蛉」は1面8行書きの行取りになっている。127丁ウの第1項「わきもこかきてはよりたつ」歌から128丁オの3行目の第6項「たとへてもはかなき物は」歌まで、いずれも「源氏釈」にある注記。第7項の「遊仙窟」以下、128丁ウ1行目の第8項の本文抄出「ことよりほか」までが後から書き加えられら注記である。それぞれ朱筆で行間に本文抄出が書き入れられている。よって後者は同じものが二重に書かれている。

 「手習」
 「自筆本奥入」では、巻名が摺消されて見えない。その位置は、表面の空白を残してその裏面の注釈冒頭部の余白に書き加えられていた。「総角」「早蕨」「宿木」巻と同様である。
 129丁ウ最終行は切断と継目により判読不能、本紙上に右端の痕跡が残っている。
 130丁オ第1行も切断と継目により判読不能、本紙上に左端の痕跡が残っている。
 「自筆本奥入」の「手習」は、1面9行書きの行取りとなっている。129丁ウの第1項の「もゝとせにひとゝせたらぬ」歌かr130丁オの「月やあらぬ春やむかしの」歌まで、「源氏釈にある注釈。定家は、さらに「陵園妾々々々顔色如花<ノ>命如葉」以下2行の注記を加えて、それを墨線で3行目「楽府 陵園妾」と4行目「松門到暁月<ニ>徘徊栢城<ハクセイ>尽<シム>日<ノモトニ>風」の間に移動すべく記している。また2行目「わかくろかみをなてす」は墨線で抹消している。

 「夢浮橋」
 「自筆本奥入」では、欠脱している。東山甲本及び高野本による。高野本は裏表紙の裏見返し部に書かれている。巻名なし。
 「手習」巻の注釈130丁表面の裏面には、
 「此愚本求数多旧手跡之本抽彼是
 用捨短慮所及雖有琢磨之志未及九牛
 之一毛井蛙之浅才寧及哉只可招嘲弄
 纔雖有勘加事又是不足言未及尋得
 以前依不慮事△△(△△#)此本披露於華
 夷遐迩門々戸々書写預誹謗云々
 雖後悔無詮懲前事毎巻奥
 所注付僻案切出為別紙之間哥等多
 切失了旁雖堪恥辱之外無他向
 後可停止他見 非人桑門明静」
という、奥書が間断することなく書き付けられている。「夢浮橋」の注記は「源氏釈」にも指摘されている。よって、奥書を書く際には欠脱していたものか。あるいはうっかり緒としてしまって、後から書き加えたものであろうか。

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