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渋谷栄一著(C)

百人秀歌

1.概要
 『百人秀歌』は、藤原定家の秀歌撰。『明月記』文暦2年(1235)5月27日条(嵯峨中院障子色紙形)に関連する「小倉百人一首」に先だって撰せられた。
 「百人秀歌」にあって「百人一首」にない歌、
                    一条院皇后宮(藤原定子)
053 夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき(後拾遺集哀傷536)
                    権中納言国信
073 春日野の下萌えわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪(新古今集春上10)
                    源俊頼朝臣
076 山桜咲きそめしより久方の 雲居に見ゆる滝の白糸(金葉集春50)
                    権中納言長方
090 紀の国の由良の岬に拾ふてふ たまさかにだに逢ひ見てしがな(新古今集恋一1075)
 以上、4首。一方、「百人一首」にあって、「百人秀歌」にない歌、
                                        源俊頼朝臣
074 うかりける人を初瀬の山おろし はげしかれとは祈らぬものを(千載集恋二707)
                    後鳥羽院
099 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は(続後撰集雑中1199)
                    順徳院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり(続後撰集雑下1202)
 以上、3首。定家の秀歌観と文暦2年頃の後鳥羽院との確執を考えさせる秀歌撰といえる。
 冷泉家時雨亭文庫蔵本は、室町初期の写本であるが、現存本諸本(宮内庁書陵部蔵「御所本 百人秀歌」と志香須賀文庫蔵本)の親本にあたる最善本である。

  • 整定テキスト
  • 翻刻テキスト

    2.主要研究史

    1971年〈昭和46〉12月 『御所本 百人秀歌』(久曽神昇「解題」 宮内庁書陵部蔵 笠間影印叢刊)刊行
    1983年〈昭和58〉2月 樋口芳麻呂『平安・鎌倉時代秀歌撰の研究』(ひたく書房)
    1983年〈昭和58〉3月 樋口芳麻呂『王朝秀歌撰』(岩波文庫)
    1986〈昭和61〉3月 『和歌大辞典』(明治書院)
    1987〈昭和62〉4月 『新編国歌大観』(第5巻 角川書店)
    1994年〈平成6〉1月 『百人一首と秀歌撰』(和歌文学論集9 風間書房)
    1997年〈平成9〉4月 冷泉家時雨亭叢書『五代簡要 定家歌学』(上絛彰次「解題」 第37巻所収 朝日新聞社)

    3.研究情報(解題・論文抄)

    イ.書誌について
    《上絛》「冷泉家時雨亭文庫蔵本は、綴葉装、一帖。縦23.5センチ、横15.5センチ。紺無地色の後補前表紙(享保6〈1721〉、7年以降、冷泉為久あたりの手になる改装か)。元来は、第1括3紙、第2括4紙、第3括4紙から成り、各紙半折して重ね合わせ、紫色絹糸で綴じた綴葉装。原装が損じたので後補表紙をつけた。この紺色後補表紙の一部は、4オと5オとの間に折り込まれている。」(「解題」93頁)
    《上絛》「全21丁。本文墨付17丁。一面、10行書き。第1括は5ウ清原深養父歌まで、第2括は6オ貞信公歌から13ウの作者名「皇太后宮大夫俊成」まで、第3括は14オ俊成歌から16オの識語までで秀歌撰本文が終わり、その後、16ウからは「金葉和謌」の端書で、計12首の『金葉集』春部歌を記す付記部分が秀歌撰本文とは別筆で記されており、17ウの末尾に「成長」という署名がある。第3括は、したがって4丁の遊紙を有するが、最後の半葉は後補後表紙に貼付した見返しとなる。ところどころ、文字の擦り消しが目につく。」(「解題」93頁)

    ロ.資料的価値について
    《上絛》「『百人秀歌』の伝本は、時雨亭文庫蔵本のほかに、宮内庁書陵部蔵本(501・89)と志香須賀文庫蔵本の2本が知られている。両本とも、時雨亭文庫蔵本と同じ内題と識語を有し、該ほんがこれらの祖本の位置を占めることは十分に推定できるが、(中略)該本がこれら2本の親本であることの明証となし得る。」(「解題」94頁)

    ハ.書写年代について
    《上絛》「為広の生年、宝徳2年(1450)を基準にして、仮にその時の母の年齢を25歳ぐらい、外祖父成長の年齢を55歳ぐらいとすると、その頃、すなわち室町初期の応永2(1395)、3年頃を書写の上限として設定することが一応できよう。」(「解題」95頁)
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