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渋谷栄一(C)

殷富門院大輔百首題


■「殷富門院大輔百首題」(一巻 天理図書館蔵) 翻刻

■研究史・参考文献
1967年(昭和42年)7月 呉文炳『定家殊芳』(吉田幸一「解題」)

■研究情報
《吉田》「紙高二二・四糎、長さ二六七糎の巻子本。しかしこれは表装本の寸法で、原本は紙高一四・五糎ほどのもの、それも、上下の余白が全くない程に切り取られてゐたものを裏打ちして、上に四糎幅、下に三糎幅の金泥紙を加へて表装したものである。表紙は紺地に唐草模様のある絹装で、左肩に金紙の外題を貼り、「殷富門院百首 定家筆」とあるのは、近世中期頃の筆跡と思はれる。
 本文料紙は、斐紙の薄様の反古紙、即ち、表は仮名書の歌か書簡の反古で、それを利用して、裏にこの百首歌を書写したのである。本文のあと二一糎の空白をおいて左の識語がある。
 此殷富門院大輔百首一巻
 先祖京極黄門定家卿之
 真跡無疑者也
  丁未仲春 冷泉中将藤原為清(花押)
この識語は、本書の極書の役目を果してゐる。為清は正四位下左近衛中将で寛文八年(一六六八)正月二日に卒してゐる。享年三十八歳。仍て丁未は寛文七年である。」(吉田幸一『定家殊芳』「解題」58~59頁)
《吉田》「仍つて、本巻は実に、この尊経閣文庫本の原本であり、しかも文治三年(一一八七)に公衡が詠進した当時、定家が書写しておいたものと考へられる。時に定家は二十六歳に当り、この年九月には、父俊成が千載集を奏覧してゐる。」(吉田幸一『定家殊芳』「解題」63頁)
《吉田》「それ故、書体筆癖が固定した定家の筆跡を見てゐる眼から見ると、本巻の書体は異様に感ぜられるかも知れないが、二十六歳頃の筆として見る時、さもありなんと思はれる節々がうかがはれて興味深いものがある。恐らく青年定家の書写本で伝存するものは少ないから、その意味で、定家の書風を論ずる上にも貴重な参考資料となることはいふまでもあるまい。」(吉田幸一『定家殊芳』「解題」65頁)
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