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渋谷栄一(C)

「伊勢物語」研究ノート(未定稿)


1.定家本「伊勢物語」書写本系統(現存本)

A 年号本

(1)「建仁2年6月書写本」(1202年〈41歳〉)系統(専修大学図書館蔵本・冷泉家時雨亭文庫蔵本)
(2)「承久3年6月2日書写本」(1221年〈60歳〉)系統(広島大学細川幽斎奥書本・東海大学蔵桃園文庫本)
(3)「貞応2年10月23日書写本」(1223年〈61歳〉)系統(彰考館文庫本)
(4)「嘉禄3年8月7日書写本」(1227年〈66歳〉)系統(山田孝雄博士旧蔵本)
(5)「嘉喜3年8月7日書写本」(1231年〈70歳〉)系統(「明月記」嘉喜3年8月5日・7日・9日条)
(6)「天福2年1月20日書写本」(1234年〈73歳〉)系統(学習院大学図書館蔵本・宮内庁書陵部蔵本)

B 無年号本(武田本・古本・流布本・別本系統)

(7)武田本「伝中和門院筆本」(陽明文庫蔵本 陽明叢書)
(8)根源本一系統「天理伝為家筆本」(天理図書館蔵本 天理図書館善本叢書)
(9)根源本二系統「千葉本」(天理図書館蔵本 天理図書館善本叢書)
(10)根源本三系統「九大伝為家筆本」
(11)根源本四系統「文暦2年5月26日書写本」

2.定家本「伊勢物語」奥書終集成

(1)「建仁2年6月書写本」(専修大学図書館蔵本)
「本ニ云ク
  当初所書本為人被借失了仍愚
  意所存為(+備)随分証本書之
   于時建仁二年季夏中旬霖雨之
   間以暇日終此功
抑伊勢物語根源古人説々不同」(85オ)
或云在原中将自記也因茲有其嫌退
比興之詞等又云伊勢筆作也似彼家集
之文躰又称伊勢物語云々
以此両説案之更難決其実否
或心中秘密身上興言外人推而難
記以之思之尤可謂其自書」(85ウ)
但疑万葉古風之中多載撰集
之哥
仁和聖日之間粗記臨幸之儀依
此等事又有此難
又伊勢家集其端文躰偏以同之
 是又見先達旧記庶幾其躰」(86オ)
 歟両不知加之此物語名字非彼
 筆者何称伊勢之字云々
或説云為狩使下向伊勢因茲有此名云々
其説又不可然始則載南京春日之
詞次又注西対夜月之思富士山之
雪武蔵野之煙凡非伊勢国事多」(86ウ)
以為此物語肝心
仍思此名尤有不審両条已推而難決
古事只仰而可信耳因茲後人又
以狩使事書此物語之端其本殊
狼藉左道物也更不用之
 只以旧本可為証拠耳」(87オ)
出ていなは限なるへみともしけち年へぬるかと
なくこゑをきけ
いとあはれ泣そきこゆるともしけちけぬるもの
とも我はしらしな
 出ていなは限なるへみといへるは今夜いてなは
 又かへりくましき限なるによりて松明
 の光もともしけちいてぬる人のうちなくけ」(87ウ)
 しきをみるもとしへぬる門をこよひかき
 りにいてつらんほとをしはかられあはれなる
 よしをよめる也
 返歌も上句はおなし心也けぬ(+る)物ともわれ
 はしらすなといへる葬礼の火のひかり
 なとのみやらるゝにつけてかくきえぬる
 身を亡者はしらぬよし也
此哥奥義集にいへる心相違此説仍書付也」(88オ)
 嘉禎四年五月十五日京極中納言入道
 以自筆之本書写了
   沙弥寂身 在判」(88ウ)
(『伊勢物語 藤原為氏筆 一帖』(専修大学図書館蔵古典影印叢刊 専修大学出版会 昭和54年10月)

「建仁2年6月書写本」(冷泉家時雨亭文庫蔵本)
「此物語事
  高二位成忠卿本<始起春日野若紫哥/終迄于昨日今日云々> 朱雀院塗籠本是也
  業平朝臣自筆本<始起名のみ立歌/終迄于昨日今日云々> 自本是也
  小式部内侍本<始起君やこし歌/終迄于程雲井歌> 小本是也
(一行空白)
当初所書本為人被借失畢仍愚意所存」(96頁)
為備随分証本書之
 于時建仁二年季夏中旬霖雨之
 間以假日終此功
(一行空白)
抑伊勢物語根源古人説々不同
或云在原中将自記也因茲有其嫌退比興之詞等
又云伊勢筆作也似彼家集之文躰又称伊勢物語云々
以此両説案之更難決其実否」(97頁)
或心中秘密身上興言外人推而難記以之思之
尤可謂其自書
但万葉古風之中多載撰集之哥仁和聖日之
間粗記臨幸之儀依此等事又有此難
又伊勢家集其端文躰偏以同之
 是又見先達旧記庶幾其躰歟両不知
加之此物語名字非彼筆者何称伊勢之字云々
或説云為狩使下向伊勢因茲有此名云々
 其説又不可然始則載南京春日之詞次又注西」(98頁)
 対夜月之思富士山之雪武蔵野之煙凡非伊勢
 国事多以為此物語肝心
 仍思此名尤有不審両条已推而難決
 古事只仰而可信耳因茲後人又以狩使事
 書此物語之端其本殊狼藉左道物也更不可用
 之只以旧本可為証拠耳
(一行空白)
出ていなは限なるへみともしけち
年へぬるかとなくこゑをきけ」(99頁)
いとあはれ泣そきこゆるともしけち
けぬるものとも我はしらしな
 出ていなは限なるへみといへるは今夜いてなは又かへり
 くましき限なるによりて松明の光もともし
 けちいてぬる人のうちなくけしきをみるもと
 しへぬる門をこよひかきりにいて給らんほとをし
 はかられあはれなるよしをよめる也
返歌も上句はおなし心也けぬる物ともわれはしら
すなといへるは葬礼の火のひかりなとの見やらるゝに
つけてかくきえぬる身とも亡者はしらぬよし」(100頁)
なり
(一行空白)
此歌奥義にいへる心相違此説仍書付之」(101頁)
(冷泉家時雨亭文庫蔵建仁二年本「伊勢物語」奥書『冷泉家時雨亭叢書』第41巻所収 96~101頁 1198年 朝日新聞社)

(2)「承久3年6月2日書写本」(東海大学蔵桃園文庫承久三年奥書本)
「抑伊勢物語根源古人説々不同或云
在原中将自記云々因茲有其嫌退比
興之詞等
又云伊勢筆作也<或云生年/十三幼書之>似彼家集文躰
是故号伊勢物語以此両説案之更難
決之心中秘密身上興言他人推而難
注之以之可謂其自書歟但万葉古
風之中多載撰集之哥仁和聖日之間
粗記臨幸之儀等事文不審伊勢」(86オ)
家集其端文躰偏以同之是又先達旧
記庶幾其躰歟両不知之加之此物語
名字非彼筆者何称伊勢乎或説云
為狩使下向伊勢仍有此字其説
又難信始則載南京春日之詞次註
西対夜月之思富士山之雪武蔵野之
煙凡非伊勢国事多以為此物語之
肝心仍両説共有不審古事只仰而可信
又或説云後人以狩使事改為此草子之」(86ウ)
端為叶伊勢物語之道理也件本狼藉
奇恠名也更伊行所為也不用之
 先年所書之本為人被借失仍為
 備証本重所校合也
   戸部尚書 在判
(一行空白)
近代以狩使事為端之本出来末代之
人今案也更不可用之
此物語古人之説不同或称在中将之」(87オ)
自書或称伊勢之筆作就彼此有書
落事等上古之人強不可尋其作者
只可翫詞花言葉而已
  戸部尚書 在判」(87ウ)
なそへなく
<万葉集第十八>
ほとゝきすこよ(こよ=今夜)なきわたれともしひをつくよ(つくよ=月夜也)になそへ(なそへ=なすらへ也)そのかけを見ん
<六帖哥>
いへはえにふかくかなしと(と$き)笛竹のよこゑやたれとゝふ人もなし
宋玉神女賦 素(モトヨリ)質幹之[酉+農]実<ナル>号志解参<ニシテ>而体(テイ)閑(ミヤヒカナリ)
曹子逮洛神賦 環姿(クワイシ)艶逸<ニシテ>儀(ヨソヲヒ)静(シツカニ)体(テイ)閑(ミヤヒカナリ)
みやひ みやひか也といふ詞
 其心みやひをかはすなといふはなさけといふ同心事歟」(88オ)
<定家卿自筆本令一校彼本奥書刻形供写于時永正△月廿六日>
 承久三年六月二日未時書之
 昨日申時書始之
 度々書写之本為人被借  失之間更以家本書写本又書之
   戸部尚書 花押」(88ウ)
(『伊勢物語』東海大学蔵桃園文庫影印叢書第6巻 1991年4月 東海大学出版会)

(3)「貞応2年10月23日書写本」(彰考館文庫本)
「此物語或説後人以狩使事改為此草子之端為叶伊勢物語道理也件本狼藉奇恠者也伊行所為也不可用之
  貞応二年十月廿三日
    戸部尚書
先年所書写之本為人被失借仍為備証本重而所校合也」
(山田清市『伊勢物語の成立と伝本の研究』より)

(4)「嘉禄3年8月7日書写本」(山田孝雄博士旧蔵本)
「嘉禄三年八月七日書残之所持加声句之点訖
  戸部尚書在判」 (山田清市『伊勢物語の成立と伝本の研究』より)

(5)「嘉喜3年8月7日書写本」(「明月記」嘉喜3年8月5日・7日・9日条 1231年〈70歳〉)
「朝間依徒然、以盲目書小草子」(5日条)
「徒然之余、自一昨日染盲目之筆書、伊勢物語了、其字如鬼」(7日条)
「校伊勢物語了」(9日条)

(6)「天福2年1月20日書写本」(学習院大学図書館蔵本)
「天福二年正月廿日<己未>申刻凌桑門
之盲目連日風雪之中遂此書写
為授鍾愛之孫女也
同廿二日校了」(89ウ)
<\定家卿自筆或本奥書 明応七六月写之>
合多本所用捨也可備証本
近代以狩使事為端之本出来末代
之人今案也更不可用之
此物語古人之説不同或称在中将之自書
或称伊勢之筆作就彼此有書落事等
上古之人強不可尋其作者只可翫詞
華言葉而已
  戸部尚書(花押)」(90オ)
(鈴木知太郎校註『天福本 伊勢物語』(昭和38年 武蔵野書院)

(7)武田本「伝中和門院筆本」(陽明文庫蔵本)
<本云/本定家卿自筆也>
合多本所(+用)捨也可備証本
近代以狩使事為端之本出来末
代之人今案也更不可用之
此物語古人之説不同或称在中将
之自書或称伊勢之筆作就彼此
有書落事等上古之人強不可尋其
作者只可翫詞華言葉而已
  戸部尚書在判」(78オ)
<本云>以定家卿自筆本令校合如彼
本墨書加畢」(78ウ)
(『伊勢物語 大和物語』陽明叢書9 昭和51年 思文閣)

(8)根源本一系統「伝為家筆本」(天理図書館蔵本)
「抑伊勢物語根源古人説々不同或云
在原中将自記之因茲有其嫌退比
興之詞等又云伊勢筆作也<或云生年/十三而書也>
似彼家集文躰是故号伊勢物語以
此両説案之更難決之心中秘密身」(86ウ)
上興言他人推而難注之以之思之可
謂其自書歟但疑万葉古風之中多載
撰集之哥仁和聖日之間粗記臨幸之
儀此等事者有不審伊勢家集其
詞文躰偏以同之是又先達旧記庶幾其」(87オ)
躰歟両不知加之此物語名字非彼
筆者何称伊勢哉或説云為持(持=狩)使下
向伊勢仍有此名其説又難信始則
載南京春日之詞以注西対夜月
之思富士山之雪武蔵野之煙凡非伊勢」(87ウ)
国事多以為此物語肝心仍両説
共有不審古事只仰而可信又或説
後人以狩使事注為此草子之詞為
叶伊勢物語之道理也此本狼藉奇
恠者也伊行之所為也不可用之」(88オ)
 先年所書之本為人被借失
 仍為備証本重所校合也
   戸部尚書定家 花押(模写)」(88ウ)
(『伊勢物語諸本集一』天理図書館善本叢書3 昭和48年 八木書店)

(9)根源本二系統「千葉本」
「抑伊勢物語根源古人説々不同
或云在原中将自記之因茲有其嫌退
比興之詞等
又云伊勢筆作也<或云生年/十三而書之>似彼家集
文躰是故号伊勢物語以此両説
案之更難決之心中秘密身上」(80オ)
興言他人推而難注之以之思之
可謂其自書歟但疑万葉古風
之中多載撰集之哥仁和聖
日之間粗記臨幸之儀此等事
者有不審
伊勢家集其詞文躰偏以同之益(80ウ)
是又見先達旧記庶幾其躰
歟両不知之加之此物語名字非彼
筆者何称伊勢哉
或説云為狩使下向伊勢仍有此名
其説又難信始則載南京春日
之詞以又注西対夜月之思富士」(81オ)
山之雪武蔵野之煙凡非伊勢
国事多以為此物語之肝心仍両説
共有不審古事只仰而可信
又或説後人以狩使事改為此草子
之端為叶伊勢物語之道理也
此本狼藉奇恠者也伊行所為」(81ウ)
也不可用之先年所書之本為人
被借失仍為備証本重所校合

   在判」(82オ)
(『伊勢物語諸本集一』天理図書館善本叢書3 昭和48年 八木書店)

(10)根源本三系統「九大伝為家筆本」
「抑伊勢物語根源古人説々不同或云在原中将自記也因茲有其嫌退比興之詞等又云伊勢筆作也或云生年十三而書之似彼家集之文躰是故号伊勢物語云々以此両説案之更難決其実否或心中秘密身上興言外人推而難記以之思之可謂其自書歟但疑万葉之古風之中多載撰集之哥仁和聖日之間粗記臨幸之儀依此等事又有不審又伊勢家集其端文躰偏以同之是又先達旧記庶幾其躰歟両不知之加之此物語名字非彼筆者何称伊勢哉或説云為狩使下向伊勢仍有此名云々其説又不可然始則載南京春日之詞次又注西対夜月之思富士山之雪武蔵野之煙凡非伊勢国事多以為此物語之肝心仍此名尤有不審両条已推而難決古事只仰而可信因茲後人以狩使事出此物語之端其本殊狼藉左道者也更不可用之只以旧本可為証拠耳
 先年所書之本為人被借失仍為備証本重所校合也
   戸部尚書 <在判/定家卿>」
(山田清市『伊勢物語の成立と伝本の研究』より)

(11)「文暦2年5月26日書写本」(天理図書館蔵本)
「伊勢物語根源古人説々不同
或云在原中将自記之因茲有其
嫌退比興詞
或云伊勢筆作也<生年十三令書也>似彼
家集之文躰因茲号伊勢物語
此両説暗難弁
心中秘蜜身上興言他人推而難注以之
思之可謂其自書但万葉集古哥」(99オ)
仁和行幸事在此中有自書之
不審
伊勢家集其端文躰偏以相似
是見先達之旧記庶幾其
躰歟両不知之
加之此物語名字非彼筆者何
称伊勢哉或説云為狩使下向
伊勢仍有此名云々」(99ウ)
又近代以狩使事書此草子之最
初為叶其名也是伊行<宮内権少輔>
之所為也更不可用
古事只仰而可信分別而何為哉
 以家本令書之」(100オ)
(100ウ)
御本云
文暦二年五月廿六日以入道
中納言自筆本書写校了」(101オ)
(『伊勢物語諸本集一』天理図書館善本叢書3 昭和48年 八木書店)

3.主要研究史

1933・34年(昭和8・9年)9月 池田亀鑑『伊勢物語に就きての研究 校本篇 研究篇』(大岡山書店 昭和8・9年9月)
1963年(昭和38年)5月 鈴木知太郎校注『天福本 伊勢物語』(武蔵野書院 昭和38年5月)
1973年(昭和48年)1月 『伊勢物語諸本集一』(天理図書館善本叢書3 片桐洋一「解題」八木書店 昭和48年1月)
1975年(昭和50年)4月 鈴木知太郎編『宮内庁書陵部蔵冷泉為和筆 御所本伊勢物語』(笠間影印叢刊 笠間書院 昭和50年4月)
1979年(昭和54年)10月 『伊勢物語 藤原為氏筆 一帖』(専修大学図書館蔵古典影印叢刊 専修大学出版会 昭和54年10月)
1998年(平成10年)8月 『伊勢物語 伊勢物語愚見抄』(冷泉家時雨亭叢書41 朝日新聞社 1998年8月)

4.解題・論文抄

1 初期定家本「伊勢物語」(建仁二年本)をめぐる諸問題

1-1「専修大学図書館蔵本」(建仁二年本系)の書誌
《中田》「「為氏筆本伊勢物語」蜂須賀家旧蔵、現専修大学図書館所蔵の一帖である。その書誌を略記すると、縦二三糎、横一五・三糎の列帖装で、題簽は後仕立てながらも、逍遥院実隆公(正二位内大臣、三条西実隆、康正元年--天文六年〈一四五五--一五三七〉)の筆になる貼題簽である。この題簽の色や文様は「桂万葉集」の題簽(『万葉集 紀貫之筆』と記載)や吉田兼右筆本『玉葉和歌集』(書陵部蔵)の題簽などと同類の竜文丹色の鳥の子紙の小短冊を貼ったものである。
 本文の手は古筆家がこぞって「為氏正筆」と認めているもので、薄手鳥の子料紙に一面八~九行、一行平均二〇字、和歌二字下げの二行書で、見返の他に一丁をおいて二丁の表より書きはじめてある。内題はないが、所々本文行間や更に首、更には奥に勘物を記載し、墨付は本文八三丁、奥書四丁の計八七丁からなり、桐箱に収められている。(中略)
 右の奥書によると、該本は定家によって建仁二年に書かれた本をもとに、嘉禎四年に沙弥寂身が書写し、それを為氏が転写したものであることがわかる。」
(中田武司「伊勢物語(寂身本)解題」6~7頁)

《中田》「またその書写の成立事情については、その奥書に記す如く、「建仁二年季夏中旬」に以前書写した伊勢物語一帖を人に貸したところ紛失されたため、改めて証本として書写したものであることがわかる。」
(中田武司「伊勢物語(寂身本)解題」13頁)

《中田》「従来「古本系」といわれている諸本の固有本文一一箇所に、「伝為家筆本」(九大本、渋谷注)と「寂身本」とを対比してみると凡そ次のようである。(中略)
 この対比によって明らかなように、「寂身本」が古本系の本文に一致するのは八箇所であり、「伝為家筆本」と一致するのはわずかに二箇所であることがわかる古本系諸本の固有本文も「寂身本」を中におくとその間には類似も多いため固有本文の数も少なくなる。」
(中田武司「伊勢物語(寂身本)解題」15~16頁)

《中田》「次は、勘物についてふれておきたい。「寂身本」の勘物は、行間や首に記されており、比較的和歌に関して詳しく記されている点に特徴が認められる。(中略)
 右に示したように注記はさまざまであり、中には「寂身本」の特質注記であるものも多い。このことは学習院蔵本の天福本と対比してもほぼ同じことがいえるから、該本の歌に関する注記は祖本とは別に、あるいは為氏自身か、沙弥寂身あたりによってものされたものではないかとも考えられる。「建仁二年云々」の奥書をもっていることによって、本書の伝本的価値は十分あると思われるが、その本文の性格や勘物などに関しても前述したように、現存の定家本伊勢物語の中、極めて高純度の書写態度を示す伝本であることが認められるのである。従って、該本は近年研究の盛んな伊勢物語証本の復元にはこれまた不可欠の資料といえよう。」
(中田武司「伊勢物語(寂身本)解題」21~24頁)

1-2「冷泉家時雨亭文庫蔵本」(建仁二年本系)の書誌
《片桐》「冷泉家時雨亭文庫蔵の『伊勢物語』(昭和六十年に重要文化財に指定)は、縦二九・三センチ、横は一紙の幅が最小二八・三センチから最大四九・四センチの紙を三十七枚つないだ全長一五四・七センチの巻子本一巻。縦二九・三センチ、横二九・七センチの濃い萌黄地蓮宝相華文の金襴表紙に、金銀箔を散らした見返しを付すが、これは江戸時代に入ってからの所為である。(中略)というように第六二段が始まっている。本来存した上巻は既に散佚し、今は下巻のみの零本になっているということである。
 付属の折紙には、(中略)とある。
 いったい冷泉家伝来の本が古筆家の極めを持つことは珍しく、この折紙を見ただけでも、該本が冷泉家に入ったのはかなり後、すなわち享保十四年(一七二九)以降のことではなかったかと思われるのであるが、それはともかく、この『伊勢物語」の筆跡は、為相の筆とは考えられまい。(中略)しかし、為相真筆ではないものの、鎌倉時代中期の書写にかかる逸品であることは疑うべくもない。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」1~3頁)

《片桐》「此物語事
  高二位成忠卿本<始起春日野若紫哥/終迄于昨日今日云々> 朱雀院塗籠本是也
  業平朝臣自筆本<始起名のみ立歌/終迄于昨日今日云々> 自本是也
  小式部内侍本<始起君やこし歌/終迄于程雲井歌> 小本是也
という三本説を掲げる。「自本」は「業平自筆本」、「小本」は「小式部内侍本」のことであるが、三本説に関する記述としては最も古いものとしてよい。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」5~6頁)

《片桐》「「抑伊勢物語根源古人説々不同…」という識語が記される。この識語は初期の定家書写本の多くに見られるので、この識語を持つ本を根源本と呼んで一括してしまうのが一般的になりつつあるが、正しくない。ちなみに該本のそれ(略)を九州大学図書館蔵の伝為家筆本のそれと比べるとつぎのようになる。(中略) 誤写や脱落と思えない例だけに限って対照したのであるが、両者は明らかに同じではない。まして、九大本には、これに続けて、「先年所書之本、為人被借失、仍為備証本、重所校合也  戸部尚書 在判」とある。該本が「于時建仁二年季夏中旬…」という奥書の前(九七頁)に記していた「当初所書本為人被借失畢。仍愚意所存為備随分証本書之」という識語とは全く異なっていて、九大本と該本が同じものではなく、別の本であることは明らかなのである。(中略)いずれにせよ、該本のように「抑伊勢物語根源古人説々不同…」という識語を持つ年号本も存在するということが、ここに確認されたというわけである。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」6~7頁)

《片桐》「前述したように、建仁二年(一二〇二)、定家四十一歳の時に書写された本文を伝える該本は、通行本である天福二年(一二三四)書写本より実に三十二年も前の定家本の姿そ留めている点において貴重である。(中略)当該建仁二年本は、同じ定家本でも後期の書写にかかる天福本や武田本などの類ではなく、(中略)など別本(古本)と呼ばれている本の類と近い関係にあることがわかる。しかし、そればかりではなく、(中略)第六九段・第八七段・第九八段・第一〇七段・第一二〇段・第一二一段に見られるように定家本より章段数が多い国立歴史民俗博物館蔵大島雅太郎氏旧蔵本・宮内庁書陵部蔵阿波国文庫旧蔵本んどの広本とも通じているし、第六九段・第九八段・第一〇七段においては定家本より章段数が少ない略本系の本間美術館蔵伝民部卿局筆本(いわゆる塗籠本)とも一致していて、初期の定家本ほど非定家本と通ずる点が多いという前述の特徴をまざまざと示しているのである。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」9~10頁)

《片桐》「このように、同じ建仁二年本でも、該本と専修大学本の本文に異同があるのは、後の校勘結果の本文化のせいであって、定家自筆本でない限り、これは仕方のない現象だったのである。(中略)
 これらのうちの多くが、天福本・武田本などの通行の定家本と異なって初期の定家本や別本や広本の特徴を持っていたことは既に前表に示して説明したが、第八六段の「うたをよみてやれりけり」と第八七段の「わがすむ方の」の場合に限っては、本文が天福本と一致し、傍記は武田本など多くの定家本と一致しているという定家本の中に対立がある特異なケースであった。つまり朱筆による傍記や訂正は、天福本以外の定家本における校訂ということになるのである。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」11~12頁)

《片桐》「『伊勢物語』の写本としては希有なことである巻子本という形態をとる該本の特徴として見逃せないのは、裏書の存在である。(中略)これも初期の定家本の勘物であると考えられるのである。(中略)問題を整理し切っていない古い時点における定家の勘物ではないかと思われるのである。(中略)裏書が本文中の勘物を補うものになっていることがわかる。そして、このように見て来ると、該本の裏書は、若き定家の試行錯誤の跡を伝えているのではないかと思われてくる。天福本のような整った勘物を持っていれば、このような逡巡はあり得ないからである。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」13~14頁)

《片桐》「前節において物語本文について詳しく述べたのと全く同じく、裏書や勘物・集付けにおいても、この冷泉家時雨亭文庫蔵の建仁二年本『伊勢物語』は、まさしく建仁二年の段階における、いわば定家本確立以前の「伊勢物語』の姿をそのままに保持していることが確認されるのである。」
(冷泉家時雨亭文庫蔵『伊勢物語』片桐洋一「解題」16頁)

6-1「学習院大学蔵本」(天福二年本系)の書誌
《鈴木》「学習院大学所蔵の右古抄本伊勢物語は藤原定家筆と伝えられ、黒塗りの箱入り、縦一六・三三cm、横一六・一七cmの胡蝶装の冊子で、薄葉の鳥の子紙料紙として用い、張数すべて九十二葉、うち墨付九十葉、特別に表紙はつけず、第一葉と第九十二葉とをば白紙のままで表紙にあて、その表紙の中央に「伊勢物語」と書してある。」
(『天福本 伊勢物語』「緒言」185頁)

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