相模集 Last updated 3/31/2005(ver.1-2)
渋谷栄一(C)

相模集


「相模集」(一帖 浅野長武氏蔵) 古典保存会複製
翻刻

概要
 現存本「相模集」は四系統に分類される。すなわち、(一)流布本系統、(二)異本A系統、(三)異本B系統、(四)異本C系統である。この定家本「相模集」(浅野家蔵本)は(一)系統で、歌数も最も多く五九七首を収める。同系統の伝本に群書類従本や榊原家本(日本古典文学会複製本)がある。他の(二)系統は歌数三〇首、(三)系統は書陵部蔵「思女集」の一本で、歌数二八首、(四)系統は「針切相模集」断簡一一葉の三六首である。
 相模は、源頼光の養女。母は慶滋保章の娘。生没年未詳。寛仁二、三年(一〇一八、九)頃、大江公資と結婚。夫の任国相模国へ下向、よって相模と呼称される。上京後、公資と離別。一方、定頼と恋愛関係をもつ。後、一品宮修子内親王に出仕し、歌合などに参加する。頼通時代の代表的女流歌人。勅撰集には「後拾遺和歌集」が初出。それには、和泉式部に次いで、四〇首が入集している。

研究史・参考文献
1943年(昭和18年)10月 『相模集』(古典保存会 橋本進吉「解説」)
1967年(昭和42年)7月 呉文炳『定家珠芳』(吉田幸一「解題」)

解題・研究抄
《橋本》「浅野侯爵所蔵の古鈔本相模集は、縦五寸四分横五寸二分の胡蝶装の冊子本一帖にして、宝珠形の模様ある藍色金欄の表紙を着けたり。表紙の見返には金銀砂子及び金の切箔にて霞を置ける紙を用ゐたるが、この表紙は後に加へたるものにして、その内側に、更に丸に萩唐草の唐紙模様を摺り出せる栗色の原表紙ありて、その中央に「相模集」と墨書せり。最後の表紙も亦同様にして、現在の表紙の前に原表紙を存せり(その紙質は巻頭の原表紙と同様なれど、これには文字なし。又、現在の表紙の見返も、その模様は巻頭のものとほゞ同じけれど、巻頭のに比すれば上下転倒せり)。本文の部分は、稍粗なる楮紙を重ねて中央より縦に折りたるもの五折を、折目に孔を穿ちて糸をかけて胡蝶綴となしたるものにして、第一折及び第二折は各十紙、第三折は七紙、第四折は八折紙、第五折は七紙より成る。されば木口にて全部八十四丁なれども、最初及び最後の一丁は、それぞれその直前及び直後の原表紙の裏に貼付して見返しとなしたれば、本としてはすべて八十二丁より成る。
 本文は一紙両面に墨書し(一面の行数十二三行のもの最多く、間々十行、十一行又は十四行の処あり)、第一丁最初より初まり第七十五丁裏面にて終り、更に、之に次ぐ第七十六丁の表面を空白として裏面中央に左の奥書(三行)あり。
 家本承久三年失之大宮三位本令書留
  嘉禄三年五月廿日
それより巻末に至る六丁(第七十七丁より第八十二丁まで)はすべて白紙なり。
 本文は全部一筆なれども、奥書は別筆なり。而して原表紙の上に題せる「相模集」の文字も奥書と同筆にして更に仔細に検すれば、本文中、誤字を訂し欠字を補へる墨書の文字も亦之と同筆と認めらるゝもの多し。然るに、この本の筆者に関しては、古筆家は之を藤原定家の書と鑑定せり。即ち、(中略)かくの如くこの本の筆者を定家と認むるは古筆家の一致する所なるが、今、之を定家の筆跡と確認せらるゝものと比較するに、この本の本文は明かに別筆にしてその自筆と見る事能はざれども、奥書及び原表紙の上の書名は紛ふ方なき定家の筆にして、この本の紙質、本文の書風字体も亦正しくその時代のものと認めらる。而してその奥書は後堀河天皇の嘉禄三年五月二十日(即ち安貞元年)のものにして、これによれば、家蔵の本が承久三年に紛失したるを以て、大宮三位の所蔵本によつて之を書き留めしめたる由なれば、定家は人に命じて本文を写さしめ、書写成りたる後、自ら原本と比校して、誤を訂し漏れたるを補ひ、嘉禄三年五月二十日に至りて業を終へ、奥書を加へてその由を記し、且つ表紙に書名を題したるものなるべし。さすれば本文の筆者は定家側近のものなるべく、その本文を読み誤りたりと思はるゝ誤写多く、稍珍しき漢字は之を欠きて空白としたるのみならず、概して筆力暢達せず、殊に漢字に於てたど/\しき趣見えたるを以て想へば、本文は恐らく女性の筆にして、或は明月記の古典筆写の記事に見ゆる「家の少女」の手に成れるものならんか。
 この本には処々に歌の上に定家の筆にて「後拾遺」又は「後」、「金」、「詞華」又は「詞」、或は「新」と書入れたるものあり。これ本書の歌が後拾遺、金葉、詞花、又は新古今の諸集に採られたるものなるを註せるものなり(その中、原本十七丁表「ありふれば」の歌は「後」とあれども、後拾遺に見えずして金葉巻七にあり、四十丁表の「なみだにもきえぬおもひの身をつめばさはのほたるもあらはれにけり」は「詞」と註したれど、詞花集にもなく、他の勅撰集にも見えず。恐らくは定家の失考なるべし。又、「後」と註せる第二十三丁裏の「うきよをもたれはかりにかなぐさまむ」の歌は後拾遺集巻十三に存すれども、その作者を和泉式部とせり。こは後拾遺集の撰者の錯誤か然らずば同集転写の間に生じたる誤なるべし)。定家は、本書を書写したる後、後堀河天皇の勅を奉じて新勅撰集を撰し貞永元年十月二日(一説には天福二年五月)功成つて奏覧せり。されば、本書の右の書入は、定家が新勅撰集の撰定に従事せる際、この書より歌を採らんとして、他の勅撰集との重出を避けむが為に、既に勅撰集に入れる歌を点検して註記せるものなるべく、相模の歌の新勅撰集に入れるものすべて十八首ある中、十五首までも相模集に見えて、その歌の語句も、殆ど皆、この定家手沢本と一致せるを以て想へば、定家は恐らくはこれらの歌をこの本より採りて新勅撰に入れたるものなるべし。さすれば、この本は新勅撰集撰定の一資料として用ゐられしものといふべきなり。(中略)
 この定家本は、定家が書写せしめてその家に蔵せしものなるべけれど、以後の伝来は未だ詳ならず。その浅野家の手に帰せしは宝永五年にして、定家の筆跡として百金を投じて購得せしものなるは、之に付属せる左の文書(包紙に「定家卿筆相模集代付」とあり)によりて知る事を得。
  定家卿筆
   相模集  一冊
    代金百枚(「百枚」ノ字ニカケテ斜ニ長方形ノ朱印アリ)
   宝永五年
     仲夏上旬   古筆
             了音「琴山」(黒印)
その珍重せられしこと知るべきなり。されば永く秘蔵せられて披見するもの稀なりしと覚しく、去る昭和十一年九月十二日重要美術品の指定を受けたれども未だ之を学術研究に利用したるものあるを聞かず、その全貌は今回の複製によりてはじめて世に知らるゝものなり。」
(橋本進吉『相模集』「浅野侯爵蔵 鈔本相模集 解説」1~8頁)

《吉田》「巻首の題号は定家、本文は側近子女筆であるが、加筆・補筆は定家筆。また終に「家本承久三年失之、以大宮三位本、令書留、嘉禄三年五月廿日」定家自筆奥書がある。」
(吉田幸一『定家珠芳』「解題」39頁)

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