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渋谷栄一(C)

「三代集之間事」研究ノート

「おほつぶね」
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」634歌の作者名勘物に「在原棟梁女」とある。

《片桐》「底本634番に書入れられた定家の勘物(439頁参照)に「在原棟梁女」とあり、689番の作者名が二荒山本・片仮名本では「むねやながむすめ」、雲州本で「在原棟梁女」となっているのを見ると、在原棟梁の娘であることは間違いなかろう。ただし顕昭の『勅撰和歌集作者目録』が「オホツブネ 左大臣時平室、中納言敦忠母、元大納言国経室也」としているのに従えば別項「敦忠母」と同一人物ということになるが、『大和物語』14段には「北院の北の方のみおとうとの、童名をおほつぶねといふいますかりけり」とあって、敦忠母の妹ということになる。本集によれば、平定文・元良親王など当代屈指の色好みとつきあっており、姉妹ともに業平の孫にふさわしい美人だったのであろう。(633)、634、659、696」(「作者名・詞書人名索引」)

「みな月はらへ」
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」215題詞の語句勘物に「古人六月中多出川原修祓不限晦日也」とある。

「こよひかく」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」214歌では第三句「つゆけきは」とある。

「けふよりは」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」241歌の語句勘物に「(\<朱>)そよみ清本奥義釈之(本用之<朱>)家本用そこゐ」とある。

《片桐》「そこゐともなく 「そこひ」は、極限、行き着く所。ただし、僻案抄や底本の定家書入れに言うように、奥義抄や二荒山本・片仮名本・伝坊門局筆本など清輔系の本では「そよみともなく」となっている。「そよみともなく」は躬恒集に「そよみなく見る君なれどたなばたの逢ふ夜のこともおもほゆるかな」、「そよみなく見る君なれど彦星の今日待ち出たる心地のみして」とあるように七夕とかかわりのある語のようだが、はっきりわからない。」(241歌脚注)

「秋くれば」歌
《片桐》「野もせに 「野も狭に」か」(262歌脚注)

「はちすばの」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」903歌の語句勘物に「他説はすなはの(可付家説<朱>)」とある。

「いせの海の」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」916歌の語句勘物に「蛤也 他家説まくかた 自他説殊不同只可随各可好」とある。

《片桐》「海人のまでかた 奥義抄、袖中抄、三代集之間事、和歌色葉、色葉和難集などに種々論じられている古来の難義。六条家の流では「あまのまくかた」とするが、いずれにしてもわからない。底本に従って「までかた」とし、万葉集が助詞の「まで」に「左右」「左右手」という字をあてていることを考えて、「左右手肩」の意に解してみた。潮を汲んだり、海藻を採ったり、左右の肩に重い物を背負って忙しく働く海人のように暇なく過ごしていたので、便りもできなかったと弁解していると解したのである。」(916歌脚注)

「みこし岡」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」1132歌の語句勘物に「延喜十七年閏十月十九日幸北野野にみこしをかといふ岡あり」とある。また作者名勘物に「于時中納言春宮大夫左兵衛督」とある。

「帰るさの」歌
出典未詳。定家自筆本「後撰和歌集」には見られない歌。また『新編国歌大観』にも見当たらない歌。

「うつろはぬ」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」1156歌には「花=本はの<朱>」という藤原行成筆本との校異が朱筆で記されている。

「今こむと」歌
冷泉家時雨亭文庫蔵「後撰集」1259歌の語句勘物に「庭訓左金吾説他家一同姑妻母名云々但又有顕綱朝臣説」とある。また「あとうがたり」については、題詞に「あとうかたり=あとかたり<朱>」という藤原行成筆本との校異が朱筆で記されている。

「寛和二年清涼殿御障子に」題詞
《小町谷》「寛和二年内裏歌合歌。作者は、大中臣能宣」(216歌脚注)

「左大臣、むすめの中宮のれうに」題詞
藤原定家自筆本「拾遺和歌集」1069歌の作者名には「右衛門督公任」とある。

《参考文献》
片桐洋一校注『後撰和歌集』(新日本古典文学大系 岩波書店 1990年4月)
小町谷照彦校注『拾遺和歌集』(新日本古典文学大系 岩波書店 1990年1月)
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