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定家本「更級日記」本文

  【第一章 上洛の記 寛仁四年<一〇二〇>九月から十二月まで(十三歳)】

 [序]

 あづまぢの道のはてよりも、なほおくつかたに生ひ出てたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかにおもひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやとおもひつつ、つれづれなるひるま、よひゐなどに、姉、継母などやうの人びとの、その物語、かの物語、光る源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わがおもふままに、そらにいかでか、おぼえ語らむ。

 [九月三日 門出]

 いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、手あらひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげたまひて、物語のおほくはべるなる、あるかぎり見せたまへ」と身を捨てて、額をつき祈りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日、門出して、いまたちといふ所にうつる。

 年ごろあそびなれつる所を、あらはにこほち散らして、たち騒ぎて、日の入り際のいとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まにはまゐりつつ、額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

 [九月十五日 下総国いかだ]

 門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめのかや屋の蔀などもなし。簾かけ、幕などひきたり。南ははるかに野の方見やらる。東、西は海近くて、いとおもしろし。夕霧立ちわたりていみじうをかしければ、朝寝などもせず、かたがた見つつ、ここを立ちなむこともあはれに悲しきに、同じ月の十五日、かきくらし降るに、境を出でて、下総の国のいかだといふ所に泊まりぬ。

 庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、おそろしくて、寝も寝られず。野中に、丘だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる。その日は雨に濡れたる物ども干し、国にたち遅れたる人びと待つとて、そこに日を暮らしつ。

 [九月十七日 まのしてらの旧跡]

 十七日のつとめて立つ。昔下総の国にまのしてらといふ人住みけり。ひきぬのを千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き河を舟にてわたる。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、河の中に四つ立てり。

 人びと歌よむを聞きて、心のうちに、

 朽ちもせぬ この河柱 残らずは
 昔の跡を いかで知らまし(一)

 その夜はくろとの浜といふ所に泊まる。かたつ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじう明かきに、風の音もいみじう心細し。人びとをかしがりて、歌よみなどするに、

 まどろまじ 今宵ならでは いつか見む
 くろとの浜の 秋の夜の月(二)

 [九月十八日 乳母、松里にて出産]

 そのつとめて、そこを立ちて、下総の国と武蔵との境にてあるふとゐ河といふが上の瀬、松里のわたりの津に泊まりて、夜一夜、舟にてかつがつ物などわたす。

 乳母なる人は男などもなくなして、境にて子産みたりしかば、離れて別に上る。いと恋しければ、行かまほしくおもふに、兄なる人抱きて率て行きたり。

 みな人は、かりそめの仮屋などいへど、風すくまじくひきわたしなどしたるに、これは男なども添はねば、いと手はなちに、あらあらしげにて、苫といふ物を一重うち葺きたれば、月残りなくさし入りたるに、紅の上に着てうち悩みて臥したる月影、さやうの人にはこよなくすぎて、いと白く清げにて、めづらしとおもひて、かきなでつつうち泣くを、いとあはれに見捨てがたくおもへど、いそぎ率ていかるる心地、いとあかずわりなし。おもかげにおぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。

 [九月十九日 見送りの人々と別れ武蔵国に入る]

 つとめて、舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、送りに来つる人びと、これよりみな帰りぬ。上るはとまりなどして、行き別るるほど、行くも止まるもみな泣きなどす。幼な心地にもあはれに見ゆ。

 今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず、浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにてむらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。

 [竹芝寺伝説]

 はるかにははさうなどいふ所の廊の跡の礎などあり。いかなる所ぞと問へば、

「これはいにしへ竹芝といふ坂なり。国の人のありけるを、火焚き屋の火焚く衛士にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、

 『などや、苦しきめを見るらむ。わが国に七つ三つくりすたるさ酒壺に、さしわたしたるひたえのひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』

 と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、帝の御女、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾の際に立ち出でたまひて、柱に依りかかりて御覧ずるに、この男の、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなるひさごの、いかになびくならむと、いみじうゆかしく思されければ、御簾を押し開けて、『あの男、こち寄れ』と、召しければ、かしこまりて、高欄のつらに参りたりければ、

 『言ひつること、いま一かへり、われに言ひて聞かせよ』

と、仰せられければ、酒壺のことを、いま一かへり申しければ、

 『われ率て行きて見せよ。さ言ふやうあり』

と、仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、論なく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり。

 帝、后、皇女失せたまひぬと思しまどひ、求めたまふに、

 『武蔵の国の衛士の男なむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうに逃げける』

と申し出でて、この男を尋ぬるに、なかりけり。論なくもとの国にこそ行くらめと、朝廷より使ひ下りて追ふに、勢多の橋こほれて、え行きやらず。

 三月といふに武蔵の国に行き着きて、この男を尋ぬるに、この皇女、おほやけ使ひを召して、

 『我さるべきにやありけむ。この男の家ゆかしくて、率て行けと言ひしかば、率て来たり。いみじくここありよおぼゆ。この男罪し、掠ぜられば、我はいかであれと。これも前の世に、この国に跡をたるべき宿世こそありけめ。はや帰りて朝廷に、このよしを奏せよ』

と仰せられければ、いはむ方なくて、上りて、帝に、

 『かくなむありつる』

と奏しければ、

 『いふかひなし。その男を罪しても、今はこの宮を取り返し、都に返したてまつるべきにもあらず。竹芝の男に、生けらむ世のかぎり、武蔵の国を預けとらせて、公事もなさせじ。ただ、宮にその国を預けたてまつらせたまふ』

よしの宣旨下りにければ、この家を内裏のごとく造りて、住ませたてまつりける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮の産みたまへる子どもは、やがて武蔵といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火焚屋に女はゐるなり」

と語る。

 [相模国から駿河国へ 足柄山中の出来事]

 野山葦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐて、あすだ河といふ、在五中将の「いざ言問いはむ」と詠みけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。

 にしとみといふ所の山、絵よく描きたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。かたつ方は、海、浜のさまも、寄せ返る浪のけしきも、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを、二三日行く。

 「夏は大和撫子の濃く薄く、錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」

と言ふに、なほ所々は、うちこぼれつつあはれげに咲きわたれり。

 「もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ」

など、人びとをかしがる。

 足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。やうやう入り立つ麓のほどだに、空のけしきはかばかしくも見えず、えもいはず茂りわたりて、いとおそろしげなり。麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女三人いづくよりともなく出で来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵の前にからかさをささせて据ゑたり。男ども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。髪いと長く額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべしなど、人びとあはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌をうたふ。人びといみじうあはれがりて、けぢかくて、人びともて興ずるに、

 「西国の遊女はえかからじ」

などいふを聞きて、

 「難波わたりに比ぶれば」

とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかりおそろしげなる山中に立ちて行くを、人びとあかず思ひてみな泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りをたたむことさへあかずおぼゆ。

 まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中のおそろしげなることいはむ方なし。雲は足の下に踏まる。山のなからばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、世ばなれてかかる山中にしも生ひけむよと、人びとあはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。からうじて、越え出でて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。

 よこはしりの関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の清くつめたきことかぎりなし。

 [古老の富士川の物語]

 富士の山はこの国なり。我が生ひ出でし国にては、西面に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青をぬりたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣に白き衵着たらむやうに見えて、山のいただきのすこし平らぎたるより、煙は立ちのぼる夕暮れは、火の燃え立つも見ゆ。

 清見が関は、かたつ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。煙りあふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。田子の浦は浪高くて舟にて漕ぎめぐる。大井川といふ渡りあり。水の世のつねならず、すりこなどを濃くて流したらむやうに、白き水はやく流れたり。

 富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり。その国の人の出でて語るやう、

 「一年ごろ、物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水のつらに休みつつ見れば、川上の方より黄なる物流れ来て、物につきてとどまりたるを見れば、反故なり。取り上げて見れば、黄なる紙に、丹して濃くうるはしくか書かれたり。あやしくて見れば、来年なるべき国どもを、除目のことみな書きて、この国来年あくべきにも、守なして、また添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、取り上げて、ほして、をさめたりしを、かへる年の司召にこの文に書かれたりし、一つたがはず、この国の守とありしままなるを、三月のうちになくなりて、またなりかはりたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。かかることなむありし。来年の司召などは、今年この山に、そこばくの神々あつまりて、ないたまふなりけりと見たまへし。めづらかなることにさぶらふ」

と語る。

 [冬深くなる 遠江の国から三河の国へ]

 沼尻といふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかかる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ、天中といふ川のつらに、仮屋造り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。

 冬深くなりたれば、川風けはしく吹き上げつつ堪へがたくおぼえけり。その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋下りし時は黒木をわたしたりし。このたびは、跡だに見えねば、舟にて渡る。入江にわたりし橋なり。外の海はいといみじく悪しく、浪高くて入江のいたづらなる洲どもに、ことものもなく松原の茂れる中より浪の寄せ返るも、色々の玉のやうに見え、まことに松のよりな浪は越ゆるやうに見えていみじくおもしろし。

 それより上は、猪鼻といふ坂の、えもいはず侘びしきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ。八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見所もなし。二むらの山の中に泊まりたる夜、大きなる柿の木の下に庵を造りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかかりたるを、人びと拾ひなどす。宮路の山といふ所越ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉散らで盛りなり。

  嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山
  またもみぢ葉の散らで残れる(三)

 三河と尾張となるしかすがのわたり、げに思ひわづらひぬべくをかし。

 [尾張の国から美濃、近江の国を経て、十二月二日、京に入る]

 尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕汐ただ満ちに満ちて、今宵宿らむも中間に、汐満ち来なば、ここをも過ぎじとあるかぎり走りまどひ過ぎぬ。

 美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野がみといふ所に着きぬ。そこに遊女ども出で来て、夜一夜、歌うたふにも、足柄なりし思ひ出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし。

 雪降り荒れまどふに、ものの興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり。

 みつさかの山の麓に、昼夜、時雨、霰降り乱れて、日の光もさやかならず、いみじうものむつかし。そこをたちて、犬上、神崎、野洲、栗太などいふ所々、何となく過ぎぬ。湖の面、はるばるとして、なで島、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。勢多の橋、みな崩れて渡りわづらふ。

 粟津にとどまりて、師走の二日、京に入る。暗く行き着くべくと、申の時ばかりにたちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふものしたる上より、丈六の仏の、いまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに人はなれていづこともなくておはする仏かなとうち見やりて過ぎぬ。ここらの国々を過ぎぬるに、駿河の清見が関と、相坂の関とばかりはなかりけり。いと暗くなりて三条の宮の西なる所に着きぬ。

  【第二章 家居の記 治安元年<一〇二一>(十四歳)から長暦二年〈一〇三八〉(三十一歳)まで】

 [治安元年<一〇二一>早春、物語へのあこがれ 継母との離別]

 広々と荒れたる所の、過ぎ来つる山々にも劣らず、大きにおそろしげなる深山木どものやうにて、都の内とも見えぬ所のさまなり。ありもつかず、いみじうもの騒がしけれども、いつしかと思ひしことなれば、「物語もとめて見せよ、物語求めて見せよ」と、母をせむれば、三条の宮に、親族なる人の衛門の命婦とてさぶらひける、尋ねて、文やりたれば、めづらしがりて喜びて、御前のを下ろしたるとて、わざとめでたき冊子ども、硯箱の蓋に入れておこせたり。うれしくいみじくて、昼夜、これを見るよりうちはじめ、またまたも見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、誰れかは物語もとめ見する人のあらむ。

 継母なりし人は、宮仕へせしが下りしなれば、思ひしにあらぬことどもなどありて、世の中うらめしげにて、他にわたるとて五つばかりなる稚児どもなどして、

 「あはれなりつる心のほどなむ、忘れむ世あるまじき」

など言ひて、梅の木の、つま近くて、いと大きなるを、

 「これが花の咲かむ折は来むよ」

と言ひおきてわたりぬるを、心のうちに恋しくあはれなりと思ひつつ、しのびねをのみ泣きて、その年も返りぬ。いつしか梅咲かなむ。来むとありしを、さやあると目をかけて待ちわたるに、花もみな咲きぬれど、音もせず思ひ侘びて花を折りてやる。

  頼めしをなほや待つべき霜枯れし
  梅をも春は忘れざりけり(四)

といひやりたれば、あはれなることども書きて、

  なほ頼め梅の立枝は契りをおかぬ
  思ひのほかの人も訪ふなり(五)

 [三月、源氏物語を耽読する]

 その春、世の中いみじう騒がしうて、松里のわたりの月影あはれに見し乳母も、三月一日に亡くなりぬ。せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣き暮らして見出だしたれば、夕日のいとはなやかにさしたるに、桜の花残りなく散り乱る。

  散る花もまた来む春は見もやせむ
  やかてわかれし人そこひしき(六)

 また聞けば、侍従の大納言の御むすめ亡くなりたまひぬなり。殿の中将のおぼし嘆くなるさま、わがものの悲しき折なれば、いみじくあはれなりと聞く。上り着きたりし時、これ手本にせよとて、この姫君の御手を取らせたりしを、「さ夜更けて寝覚めざりせば」など書きて、「鳥辺山谷に煙の燃え立たばはかなく見えしわれと知らなむ」と、言ひ知らずをかしげにめでたく書きたまへるを見て、いとど涙を添へまさる。

 かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、心くるしがりて、母、物語など求めて見せたまふに、げにおのづから慰みゆく。「紫のゆかり」を見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人語らひなどもえせず。誰れもいまだ都なれぬほどにてえ見つけず。いみじく心もとなくゆかしくおぼゆるままに、「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せたまへ」と、心のうちに祈る。

 親の太秦に籠もりたまへるにも、ことごとなくこのことを申して、出でむままに、この物語、見果てむと思へど見えず。いと口惜しく思ひ嘆かるるに、をばなる人の田舎より上りたる所にわたいたれば、「いとうつくしう生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、帰るに、

 「何をかたてまつらむ。まめまめしき物は、まさなかりなむ。ゆかしくしたまふなるものをたてまつらむ」

とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将、とほぎみ、芹河、しらら、あさうづなどいふ物語ども、一袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。

 はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日暮らし、夜は目の覚めたるかぎり、灯を近くともして、これを見るより他のことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢にいときよげなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、

 「法華経五の巻をとく習へ」

といふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず。「物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろ悪ろきぞかし。盛りにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光るの源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。

 [相変わらず物語の世界に遊ぶ]

 五月ついたちごろ、つま近き花橘のいと白く散りたるを眺めて、

  時ならず降る雪かとぞ眺めまし
  花橘の薫らざりせば(七)

 足柄といひし山の麓に、暗がりわたりたりし木のやうに、茂れる所なれば、十月ばかりの紅葉、四方の山辺よりもけにいみじくおもしろく、錦をひけるやうなるに、外より来たる人の、「今参りつる道に、紅葉のいとおもしろき所のありつる」といふに、ふと、

  いづこにも劣らじものをわが宿の
  世を秋はつるけしきばかりは(八)

 物語のことを昼は日暮らし思ひつづけ、夜も目の覚めたるかぎりは、これをのみ心にかけたるに、夢に見ゆるやう、「このごろ皇太后宮の一品の宮の御料に、六角堂に遣水をなむつくる」といふ人あるを、「そはいかに」と問へば、「天照御神を念じませ」といふと見て、人にも語らず、何とも思はでやみぬる、いといふかひなし。春ごとに、この一品の宮を眺めやりつつ、

  咲くと待ち散りぬと嘆く春はただ
  わが宿がほに花を見るかな(九)

 [治安二年〈一〇二二〉三月、不思議な猫の訪問(十五歳)]

 三月つごもりがた、土忌みに人のもとに渡りたるに、桜盛りにおもしろく、今まで散らぬもあり。帰りて又の日、

  あかざりし宿の桜を春暮れて
  散りがたにしも一目見しかな(一〇)

 といひにやる。

 花の咲き散る折ごとに、乳母亡くなりし折ぞかし、とのみあはれなるに、同じ折亡くなりたまひし侍従の大納言の御むすめの手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜更くるまて物語を読みて起きゐたれば、来つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、

 「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」

とあるに、いみじう人慣れつつ、かたはらにうち臥したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、ものもきたなげなるは、他ざまに顔を向けて喰はず。姉妹の中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉の悩むことあるに、ものさわがしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、

 「いづら猫は。こち率て来」

とあるを、「など」と問へば、

 「夢にこの猫のかたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御女の、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじう侘びしきこと』と言ひて、いみじう鳴くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」

と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。その後はこの猫を北面にも出ださず思ひかしづく。ただ一人ゐたる所にこの猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、

 「侍従大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせたてまつらばや」

と言ひかくれば、顔をうちまもりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。

 [七月七日、長恨歌の物語と十三夜の語らい]

 世の中に「長恨歌」といふ書を物語に書きてある所あんなりと聞くに、いみじくゆかしけれど、え言ひよらぬに、さるべき頼りを尋ねて、七月七日言ひやる。

  契りけむ昔の今日のゆかしさに
  天の河浪うち出でつるかな(一一)

 返し

  立ち出づる天の河辺のゆかしさに
  つねはゆゆしきことも忘れぬ(一二)

 その十三日の夜、月いみじく隈なく明かきに、みな人も寝たる夜中ばかりに、縁に出でゐて、姉なる人、空をつくづくと眺めて、

 「ただ今行方なく飛び失せなば、いかが思ふべき」

と問ふに、なま恐ろしと思へるけしきを<見て、異事に言ひなして、笑ひなどして聞けば、かたはらなる所に、先駆ふ車止まりて、「荻の葉、荻の葉」と呼ばすれど、答へざなり。呼びわづらひて、笛をいとをかしく吹きすまして、過ぎぬなり。

  笛の音のただ秋風と聞こゆるに
  など荻の葉のそよと答へぬ(一三)

と言ひたれば、げにとて、

  荻の葉の答こたふるまでも吹きよらで
  ただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き(一四)

 かやうに明くるまで眺めあかいて、夜明けてぞみな人寝ぬる。

 [治安三年〈一〇二三〉四月、家の火事と猫の焼死(十六歳)]

 その返る年、四月の夜中ばかりに、火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も焼けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔に鳴きて歩み来などせしかば、父なりし人も「めづらかにあはれなることなり。大納言に申さむ」などありしほどに、いみじうあはれに口惜しくおぼゆ。

 [万寿元年〈一〇二四〉早春、梅や紅梅を見て和歌を詠む(十七歳)]

 広々ともの深き、深山のやうにはありながら、花紅葉の折は四方の山辺も何ならぬを見ならひたるに、たとしへなく狭き所の、庭のほどもなく、木などもなきに、いと心憂きに向かひなる所に梅、紅梅など咲き乱れて、風につけて、かかへ来るにつけても、住みなれし古里限りなく思ひ出でらる。

  匂ひ来る隣の風を身にしめて
  ありし軒端の梅ぞ恋しき(一五)

 [五月、姉の死と哀悼]

 その五月の朔日に、姉なる人、子産みて亡くなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれと思ひわたるに、ましていはむ方なくあはれ悲しと思ひ嘆かる。母などは皆亡くなりたる方にあるに、形見にとまりたる幼き人びとを左右に臥せたるに、荒れたる板屋の隙より月の漏り来て、稚児の顔に当たりたるが、いとゆゆしくおぼゆれば、袖をうちおほひて、いま一人をもかき寄せて、思ふぞいみじきや。

 そのほど過ぎて、親族なる人のもとより、

 「昔の人の、必ず求めておこせよ、とありしかば求めしに、その折はえ見出でずなりにしを、今しも人のおこせたるが、あはれに悲しきこと」

とて、『かばね尋ぬる宮』といふ物語をおこせたり。まことにぞあはれなるや。返り事に、

  埋もれぬかばねを何に尋ねけむ
  苔の下には身こそなりけれ(一六)

 乳母なりし人、「今は何につけてか」など、泣く泣くもとありける所に帰りわたるに、

 「ふるさとにかくこそ人は帰りけれ
  あはれいかなる別れなりけむ(一七)
 昔の形見には、いかでとなむ思ふ」

など書きて、「硯の水の凍れば、みな閉ぢられてとどめつ」と言ひたるに、

  かき流すあとはつららに閉ぢてけり
  何を忘れぬ形見とか見む(一八)

と言ひやりたる返り事に、

  慰むる方もなぎさの浜千鳥
  何か憂き世にあともとどめむ(一九)

 この乳母、墓所見て、泣く泣く帰りたりし。

  昇りけむ野辺は煙もなかりけむ
  いづこを墓と訪ねてか見し(二〇)

 これを聞きて、継母なりし人、

  そこはかと知りて行かねど先に立つ
  涙ぞ道のしるべなりける(二一)

 『かばね尋ぬる宮』おこせたりし人、

  住み慣れぬ野辺の笹原あとはかも
  なくなくいかに尋ね侘びけむ(二二)

 これを見て、兄人はその夜送りに行きたりしかば、

  見しままに燃えし煙は尽きにしを
  いかが尋ねし野辺の笹原(二三)

 [雪の降る頃、吉野の尼を思って和歌を詠む]

 雪の日を経て降るころ、吉野山に住む尼君を思ひやる。

  雪降りてまれの人目も絶えぬらむ
  吉野の山の峰のかけ道(二四)

 [万寿二年〈一〇二五〉正月、父司召に漏れる(十八歳)]

 返る年、睦月の司召に親の喜びすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、「さりともと思ひつつ、明くるを待ちつる心もとなさ」と言ひて、

  明くる待つ鐘の声にも夢覚めて
  秋の百夜の心地せしかな(二五)

と言ひたる返り事に、

  暁を何に待ちけむ思ふこと
  なるとも聞かぬ鐘の音ゆゑ(二六)

 [四月晦方、東山に移転]

 四月晦方、さるべきゆゑありて、東山なる所へ移ろふ。道のほど、田の苗代、水まかせたるも、植ゑたるも、何となく青みをかしう見えわたりたる。山の陰暗う前近う見えて、心細くあはれなる夕暮、水鶏いみじく鳴く。

  たたくとも誰れか水鶏の暮れぬるに
  山路を深く尋ねては来む(二七)

 霊山近き所なれば、詣でて拝みたてまつるに、いと苦しければ、山寺なる石井に寄りて、手にむすびつつ飲みて、「この水のあかずおぼゆるかな」と言ふ人のあるに、

  奥山の石間の水をむすびあげて
  あかぬものとは今のみや知る(二八)

と言ひたれば、水飲む人、

  山の井のしづくに濁る水よりも
  こはなほあかぬ心地こそすれ(二九)

 帰りて夕日けざやかにさしたるに、都の方も残りなく見やらるるに、このしづくに濁る人は、京に帰るとて、心苦しげに思ひて、またつとめて、

  山の端に入り日の影は入りはてて
  心細くぞ眺めやられし(三〇)

 念仏する僧の暁にぬかづく音の尊く聞こゆれば、戸を押し開けたれば、ほのぼのと明けゆく山際、小暗き梢ども霧りわたりて、花紅葉の盛りよりも、何となく茂りわたれる空のけしき、曇らはしくをかしきに、ほととぎすさへ、いと近き梢にあまたたび鳴いたり。

  誰れに見せ誰れに聞かせむ山里の
  この暁もをちかへる音も(三一)

 この晦の日、谷の方なる木の上に、ほととぎすかしがましく鳴いたり。

  都には待つらむものをほととぎす
  今日ひねもすに鳴きくらすかな(三二)

などのみ眺めつつ、もろともにある人、「ただ今、京にも聞きたらむ人あらむや。かくて眺むらむと思ひおこする人あらむや」など言ひて、
  山深く誰れか思ひはおこすべき
  月見る人はおほからめとも(三三)

と言へば、

  深き夜に月見る折は知らねども
  まづ山里ぞ思ひやらるる(三四)

 暁になりやしぬらむと思ふほどに、山の方より人あまた来る音す。驚きて見やりたれば、鹿の縁のもとまで来て、うち鳴いたる、近うてはなつかしからぬものの声なり。

  秋の夜の妻恋ひかぬる鹿の音は
  遠山にこそ聞くべかりけれ(三五)

 知りたる人の近きほどに来て帰りぬと聞くに、

  まだ人目知らぬ山辺の松風も
  音して帰るものとこそ聞け(三六)

 [八月、京の邸に帰る]

 八月になりて、二十余日の暁方の月、いみじくあはれに山の方は小暗く、滝の音も似るものなくのみ眺められて、

  思ひ知る人に見せばや山里の
  秋の夜深き有明の月(三七)

 京に帰り出づるに、渡りし時は水ばかり見えし田どもも、みな刈りはててけり。

  苗代の水かげばかり見えし田の
  刈りはつるまで長居しにけり(三八)

 [十月晦方、東山を再訪]

 十月晦方にあからさまに来て見れば、小暗う茂れりし木の葉ども残りなく散り乱れて、いみじくあはれげに見えわたりて、心地よげにささらぎ流れし水も、木の葉に埋もれて、跡ばかり見ゆ。

  水さへぞ澄み絶えにける木の葉散る
  嵐の山の心細さに(三九)

 [万寿三年〈一〇二六〉三月、東山の尼に和歌を贈る(十九歳)]

 そこなる尼に、「春まで命あらば必ず来む。花ざかりはまづ告げよ」など言ひて帰りにしを、年返りて三月十余日になるまで音もせねば、

  契りおきし花のさかりを告げぬかな
  春やまだ来ぬ花や匂はぬ(四〇)

 旅なる所に来て、月のころ、竹のもと近くて風の音に目のみ覚めて、うちとけて寝られぬころ、

  竹の葉のそよぐ夜ごとに寝覚めして
  何ともなきにものぞ悲しき(四一)

 秋ごろそこをたちて他へ移ろひて、その主人に、

  いづことも露のあはれは分れじを
  浅茅が原の秋ぞ恋しき(四二)

 [光る源氏や浮舟を夢想する]

 継母なりし人、下りし国の名を宮にも言はるるに、異人通はしてのちもなほその名を言はると聞きて、親の今はあいなきよし言ひにやらむとあるに、

  朝倉や今は雲井に聞くものを
  なほ木のまろが名のりをやする(四三)

 かやうにそこはかなきことを思ひつづくくるをやくにて、物詣でをわづかにしても、はかばかしく人のやうならむとも念ぜられず。このごろの世の人は十七八よりこそ経読み、行ひもすれ、さること思ひかけられず。からうじて思ひよることは、「いみじくやむごとなく、かたちありさま、物語にある光る源氏などのやうにおはせむ人を、年に一度にても通はしたてまつりて、浮舟の女君のやうに山里に隠し据ゑられて、花、紅葉、月、雪を眺めて、いと心細げにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめ」とばかり思ひつづけ、あらましごとにもおほえけり。

 [長元五年〈一〇三二〉二月、父親、常陸介に任官(二十五歳)]

 親となりなば、いみじうやむごとなくわが身もなりなむなど、ただ行方なきことをうち思ひ過ぐすに、親からうじて、遥かに遠き東になりて、

「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづ胸あくばかりかしづきたてて、率て下りて、海山の景色も見せ、それをばさるものにて、わが身よりも高うもてなしかしづきて見むとこそ思ひつれ。我も人も宿世のつたなかりければ、ありありて、かく遥かなる国になりにたり。幼かりし時、東の国に率て下りてだに、心地もいささか悪しければ、これをや、この国に見捨てて、まどはむとすらむと思ふ。人の国の恐ろしきにつけても、わが身一つならば、安らかならましを、ところせう引き具して、言はまほしきこともえ言はず、せまほしきこともえせずなどあるが、侘びしうもあるかなと心をくだきしに、今はまいて、大人になりにたるを、率て下りて、わが命も知らず、京のうちにてさすらへむは例のこと、東の国、田舎人になりてまどはむ、いみじかるべし。京とても、頼もしう迎へとりてむと思ふ類、親族もなし。さりとて、わづかになりたる国を辞し申すべきにもあらねば、京にとどめて永き別れにてやみぬべきなり。京にも、さるべきさまにもてなして、とどめむとは思ひよることにもあらず」

と、夜昼嘆かるるを聞く心地、花紅葉の思ひもみな忘れて悲しく、いみじく思ひ嘆かるれど、いかがはせむ。

 [七月、父親、常陸国に下向]

 七月十三日に下る。五日かねては、見むもなかなかなべければ、内にも入らず。まいて、その日はたち騒ぎて、時なりぬれば、今はとて簾を引き上げて、うち見あはせて涙をほろほろと落として、やがて出でぬるを見送る心地、目もくれまどひて、やがて臥されぬるに、とまる男の、送りして帰るに、懐紙に、

  思ふこと心にかなふ身なりせば
  秋の別れを深く知らまし(四四)

とばかり書かれたるをも、え見やられず。事よろしき時こそ腰折れかかりたることも思ひつづけけれ、ともかくも言ふべき方もおぼえぬままに、

  かけてこそ思はざりしかこの世にて
  しばしも君に別るべしとは(四五)

とや書かれにけむ。

 いとど人目も見えず、寂しく心細くうちながめつつ、いづこばかりと、明け暮れ思ひやる。道のほども知りにしかば、はるかに恋しく心細きことかぎりなし。明くるより暮るるまで、東の山際を眺めて過ぐす。

 [八月、太秦に籠る]

 八月ばかりに太秦に籠るに、一条より詣づる道に、男車、二つばかり引き立てて、物へ行くにもろともに来べき人待つなるべし。過ぎて行くに、随身だつ者をおこせて、

  花見に行くと君を見るかな

と言はせたれば、かかるほどのことは、いらへぬも便なしなどあれば、

  千種なる心ならひに秋の野の(四六)

とばかり言はせて行き過ぎぬ。七日さぶらふほども、ただ東路のみ思ひやられて、よしなし事からうじてはなれて、「平らかにあひ見せたまへ」と申すは、仏もあはれと聞き入れさせたまひけむかし。

 [冬、常陸国との消息往来]

 冬になりて、日暮らし雨降りくらいたる夜、雲かへる風はげしううち吹きて、空はれて月いみじう明かうなりて、軒近き荻のいみじく風に吹かれて、砕けまどふがいとあはれにて、

  秋をいかに思ひ出づらむ冬深み
  嵐にまどふ荻の枯葉は(四七)

 [長元六年〈一〇三三〉 常陸国の父と消息往来(二十六歳)]

 東より人来たり。

 「神拝といふわざして、国の内ありきしに、水をかしく流れたる野のはるばるとあるに、木むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子偲びの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかりしかば、馬より下りて、そこに二時なむ眺められし、

  とどめをきてわがごと物や思ひけむ
  見るに悲しき子偲びの森(四八)

となむおぼえし」

とあるを見る心地、言へばさらなり。返り事に、

  子偲びを聞くにつけてもとどめおきし
  秩父の山のつらき東路(四九)

 [彼岸のころ、清水寺に参籠]

 かうてつれづれと眺むるに、などか物詣でもせざりけむ。母いみじかりし古代の人にて、「初瀬にはあな恐ろし。奈良坂にて人にとられなばいかがせむ。石山、関山越えていと恐ろし。鞍馬はさる山、率て出でむ、いと恐ろしや。親上りて、ともかくも」と、さしはなちたる人のやうにわづらはしがりて、わづかに清水に率て籠りたり。

 それにも例の癖は、まことしかべいことも思ひ申されず。彼岸のほどにて、いみじう騒がしう恐ろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳の方の犬防ぎの内に、青き織物の衣を着て、錦を頭にもかづき、足にも履いたる僧の別当とおぼしきが寄り来て、「行く先のあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむつかりて、御帳の内に入りぬと見ても、うち驚きても、かくなむ見えつるとも語らず、心にも思ひとどめてまかでぬ。

 [母、一尺の鏡を長谷寺に献ず]

 母、一尺の鏡を鋳させて、え率て参らぬかはりにとて、僧を出だし立てて、初瀬に詣でさすめり。「三日さぶらひて、この人のあべからむさま、夢に見せたまへ」など言ひて、詣でさするなめり。そのほどは精進せさす。この僧帰りて、

 「夢をだに見で、まかでなむが、本意なきこと。いかが帰りても申すべきと、いみじう額づき行ひて寝たりしかば、御帳の方より、いみじう気高う清げにおはする女のうるはしくさうぞきたまへるが、奉りし鏡を引き下げて、『この鏡には、文や添ひたりし』と問ひたまへば、かしこまりて、『文もさぶらはざりき。この鏡をなむ奉れとはべりし』と答へたてまつれば、『あやしかりけることかな。文添ふべきものを』とて、『この鏡をこなたに映れる影を見よ。これ見ればあはれに悲しきぞ』とて、さめざめと泣きたまふを見れば、ふしまろび泣き嘆きたる影映れり。この影を見ればいみじう悲しな。これ見よ』とて、いま片つ方に映れる影を見せたまへば、御簾ども青やかに、几帳おし出でたる下より色々の衣こぼれ出で、梅桜咲きたるに、鴬木伝ひ鳴きたるを見せて、『これを見るはうれしな』とのたまふとなむ見えし」

と語るなり。いかに見えけるぞとだに耳もとどめず。

 物はかなき心にも、つねに「天照る御神を念じ申せ」といふ人あり。いづこにおはします神仏にかはなど、さはいへど、やうやう思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀伊の国に、紀の国造と申すはこの御神なり。さては内侍所にすべら神となむおはします」といふ。伊勢の国までは思ひかくべきにもあらざなり。内侍所にも、いかでかは参り拝みたてまつらむ。空の光を念じ申すべきにこそはなど、浮きておぼゆ。
 親族なる人、尼になりて修学院に入りぬるに、冬ごろ、

  涙さへふりはへつつぞ思ひやる
  あらし吹くらむ冬の山里(五〇)

 返し、

  わけてとふ心のほどの見ゆるかな
  木蔭をぐらき夏の茂りを(五一)

 [長元九年〈一〇三六〉秋、父、常陸より上京(二十九歳)]

  あづまに下りし親、からうじて上りて、西山なる所に落ち着きたれば、そこにみな渡りて見るに、いみじううれしきに、月の明かき夜一夜、物語りなどして、

  かかる世もありける物をかぎりとて
  君に別れし秋はいかにぞ(五二)

と言ひたれば、いみじく泣きて、

  思ふ事かなはずなぞと厭ひこし
  命のほども今ぞうれしき(五三)

 これぞ別れの門出と、言ひ知らせしほどの悲しさよりは、平らかに待ちつけたるうれしさもかぎりなけれど、「人の上にても見しに、老い衰へて世に出で交じらひしは、をこがましく見えしかば、我はかくて閉ぢこもりぬべきぞ」とのみ、残りなげに世を思ひ言ふめるに、心細さ堪へず。
 東は野のはるばるとあるに、東の山際は比叡の山よりして、稲荷などいふ山まであらはに見えわたり、南は雙びの岡の松風、いと耳近う心細く聞こえて、内にはいただきのもとまで、田といふものの、ひた引き鳴らす音など、田舎の心地して、いとをかしきに、月の明かき夜などは、いとおもしろきを、ながめ明かし暮らすに、知りたりし人、里遠くなりて音もせず。便りにつけて、「なにごとかあらむ」とつたふる人におどろきて、

  思ひ出でて人こそ訪はね山里の
  籬の荻に秋風は吹く(五四)

と言ひにやる。十月になりて、京に移ろふ。

  【第三章 宮仕えの記 長暦三年〈一〇三九〉(三十二歳)から寛徳元年〈一〇四四〉(三十七歳)まで】

 [長暦三年〈一〇三九〉 母出家、父隠遁し、宮仕えに出る(三十二歳)]

 母、尼になりて、同じ家の内なれど、方ことに住み離れてあり。父はただわれを大人にしすゑて、われは世にも出で交じらはず、蔭に隠れたらむやうにてゐたるを見るも、頼もしげなく心細くおぼゆるに、聞こしめすゆかりある所に、「なにとなくつれづれに心細くてあらむよりは」と召すを、古代の親は、宮仕へ人はいと憂きことなりと思ひて過ぐさするを、「今の世の人は、さのみこそは出で立て。さてもおのづからよきためしもあり。さても心見よ」といふ人びとありて、しぶしぶに出だしたてらる。

 まづ一夜参る。菊の濃く薄き八つばかりに、濃き掻練を上に着たり。さこそ物語にのみ心を入れて、それを見るよりほかに、行き通ふ類、親族などだにことになく、古代の親どもの蔭ばかりにて、月をも花をも見るよりほかのことはなきならひに、立ち出づるほどの心地、あれかにもあらず、うつつともおぼえで、暁にはまかでぬ。

  里びたる心地には、なかなか、定まりたらむ里住みよりは、をかしきことをも見聞きて、心もなぐさみやせむと思ふ折々ありしを、いとはしたなく悲しかるべきことにこそあべかめれと思へど、いかがせむ。

 [十二月、再び出仕]

  師走になりて、また参る。局してこのたびは日ごろさぶらふ。上には時々、夜々も上りて、知らぬ人の中にうち臥して、つゆまどろまれず、恥づかしうもののつつましきままに、忍びてうち泣かれつつ、暁には夜深く下りて、日暮らし、父の老い衰へて、われを子としも頼もしからむ蔭のやうに、思ひ頼みむかひゐたるに、恋しくおぼつかなくのみおぼゆ。母亡くなりにし姪どもも、生まれしより一つにて、夜は左右に臥し起きするも、あはれに思ひ出でられなどして、心もそらにながめ暮らさる。立ち聞き、かいまむ人のけはひして、いといみじくものつつまし。

 [それから十日後、里下がりして]

 十日ばかりありて、まかでたれば、父母、炭櫃に火などおこして待ちゐたりけり。車より下りたるをうち見て、「おはする時こそ人目も見え、さぶらひなどもありけれ。この日ごろは人声もせず、前に人影も見えず、いと心細くわびしかりつる。かうてのみも、まろが身をば、いかがせむとかする」とうち泣くを見るもいと悲し。つとめても、「今日はかくておはすれば、内外人多く、こよなくにぎははしくもなりたるかな」とうち言ひて、向かひゐたるも、いとあはれに、何の匂ひのあるにかと、涙ぐましう聞こゆ。

 [前世の夢]

 聖などすら、前の世のこと夢に見るは、いとかたかなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう、清水の礼堂にゐたれば、別当とおぼしき人出で来て、

 「そこは前の生に、この御寺の僧にてなむありし。仏師にて、仏をいと多く造りたてまつりし功徳によりて、ありし素姓まさりて人と生れたるなり。この御堂の東におはする丈六の仏は、そこの造りたりしなり。箔を押しさして亡くなりにしぞ」と。

 「あないみじ。さは、あれに箔押したてまつらむ」

と言へば、

 「亡くなりにしかば、こと人箔押したてまつりて、こと人供養もしてし」

 と見てのち、清水にねむごろに参り仕うまつらましかば、前の世にその御寺に仏念じ申しけむ力に、おのづからようもやあらまし。いといふかひなく、詣で仕うまつることもなくてやみにき。

 [十二月二十五日、宮の御仏名]

 十二月二十五日、宮の御仏名に、召しあれば、その夜ばかりと思ひて参りぬ。白き衣どもに、濃き掻練をみな着て、四十余人ばかり出でゐたり。しるべしいでし人の蔭に隠れて、あるが中にうちほのめいて、暁にはまかづ。

 雪うち散りつつ、いみじくはげしく、冴え凍る暁方の月の、ほのかに濃き掻練の袖に映れるも、げに濡るる顔なり。道すがら、

  年は暮れ夜は明け方の月影の
  袖に映れるほどぞはかなき(五五)

 [長久元年〈一〇四〇〉春頃、橘俊通と結婚(三十三歳)]

 かう立ち出でぬとならば、さても宮仕への方にもたち馴れ、世にまぎれたるも、ねぢけがましきおぼえもなきほどは、おのづから人のやうにもおぼしもてなさせたまふやうもあらまし。親たちも、いと心えず、ほどもなくこめすゑつ。さりとて、そのありさまの、たちまちにきらきらしきいきほひなどあんべいやうもなく、いとよしなかりけるすずろ心にても、ことのほかにたがひぬるありさまなりかし。

  いくちたび水の田芹を摘みしかは
  思ひしことのつゆもかなはぬ(五六)

とばかりひとりごたれてやみぬ。

 [長久三年〈一〇四二〉四月、月の明るい夜に出仕(三十五歳)]

 その後はなにとなくまぎらはしきに、物語のこともうちたえ忘られて、物まめやかなるさまに、心もなりはててぞ、「などて、多くの年月を、いたづらにて臥し起きしに、おこなひをも物詣でをもせざりけむ。このあらましごととても、思ひしことどもは、この世にあんべかりけることどもなりや。光源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。薫大将の宇治に隠しすゑたまふべきもなき世なり。あなものぐるほし。いかに、よしなかりける心なり」と思ひしみはてて、まめまめしく過ぐすとならば、さてもありはてず。

 参りそめし所にも、かくかきこもりぬるを、まことともおぼしめしたらぬさまに人びともつげ、たえず召しなどする中にも、わざと召して、「若い人参らせよ」と仰せらるれば、えさらず出だしたつるにひかされて、また時々出で立てど、過ぎにし方のやうなるあいなだのみの心おごりをだに、すべきやうもなくて、さすがに、若い人にひかれて、折々さし出づるにも、馴れたる人は、こよなく、何ごとにつけてもありつき顔に、われはいと若人にあるべきにもあらず、また大人にせらるべきおぼえもなく、時々のまらうとにさし放たれて、すずろなるやうなれど、ひとへにそなた一つを頼むべきならねば、われよりまさる人あるも、うらやましくもあらず、なかなか心やすくおぼえて、さんべき折ふし参りて、つれづれなるさんべき人と物語などして、めでたきことも、をかしくおもしろき折々も、わが身はかやうにたちまじり、いたく人にも見知られむにも、はばかりあんべければ、ただ大方のことにのみ聞きつつ過ぐすに、内裏の御供に参りたる折、有明の月いと明かきに、わが念じ申す天照御神は内裏にぞおはしますなるかし、かかる折に参りて拝みたてまつらむと思ひて、四月ばかりの月の明かきに、いとしのびて参りたれば、博士の命婦は知るたよりあれば、灯籠の火のいとほのかなるに、あさましく老い神さびて、さすがにいとよう物など言ひゐたるが、人ともおぼえず、神の現れたまへるかとおぼゆ。

 またの夜も、月のいと明かきに、藤壺の東の戸を押し開けて、さべき人々、物語りしつつ月をながむるに、梅壺の女御の上らせたまふなる音なひ、いみじく心にくく優なるにも、故宮のおはします世ならましかば、かやうに上らせたまはましなど、人びと言ひ出づる、げにいとあはれなりかし。

  天の戸を雲井ながらもよそに見て
  昔の跡を恋ふる月かな(五七)

 [冬になって]

 冬になりて、月なく雪も降らずながら、星の光に、空さすがに隈なく冴えわたりたる夜のかぎり、殿の御方にさぶらふ人びとと物語りし明かしつつ、明くればたち別れたち別れしつつ、まかでしを思ひ出でければ、

  月もなく花も見ざりし冬の夜の
  心にしみて恋しきやなぞ(五八)

 われもさ思ふことなるを、同じ心なるもをかしうて、

  冴えし夜の氷は袖にまだ解けで
  冬の夜ながらねをこそは泣け(五九)

 御前に臥して聞けば、池の鳥どもの、夜もすがら声々羽ぶきさわぐ音のするに、目も覚めて、

  わがごとぞ水の浮き寝に明かしつつ
  上毛の霜をはらひわぶなる(六〇)

 と一人ごちたるを、かたわらに臥したまへる人聞きつけて、

  まして思へ水の仮寝のほどだにぞ
  上毛の霜をはらひわびける(六一)

 語らふ人どち、局の隔てなる遣戸を開け合せて、物語などし暮らす日、また語らふ人の上にものしたまふをたびたび呼び下ろすに、「せちにことあらば行かむ」とあるに、枯れたる薄のあるにつけて、

  冬枯れの篠の小薄袖たゆみ
  招きもよせじ風にまかせむ(六二)

 [十月朔日ごろの時雨の夜、源資通と語らう]

 上達部、殿上人などに対面する人は、定まりたるやうなれば、うひうひしき里人は、ありなしをだに知らるべきにもあらぬに、十月ついたちごろの、いと暗き夜、不断経に、声よき人びとよむほどなりとて、そなた近き戸口に二人ばかり、たち出でて聞きつつ、物語してより臥してあるに、参りたる人のあるを、

 「逃げ入りて、局なる人びと、呼びあげなどせむも見苦し。さはれ、ただ折からこそ。かくてただ」

と言ふいま一人のあれば、かたわらにて聞きゐたるに、おとなしく静やかなるけはひにて、物など言ふ口惜しからざなり。「いま一人は」など問ひて、世の常のうちつけのけさうびてなども言ひなさず、世の中のあはれなることどもなど、こまやかに言ひ出でて、さすがにきびしう、ひき入りがたい節々ありて、われも人も応へなどするを、「まだ知らぬ人のありける」など珍しがりて、とみに立つべくもあらぬほど、星の光だに見えず暗きに、うち時雨れつつ、木の葉にかかる音のをかしきを、

 「なかなかに艶にをかしき夜かな。月の隈なく明かからむもはしたなくまばゆかりぬべかりけり」。

 春秋のことなど言ひて、

 「時にしたがひ見ることには、春霞おもしろく、空ものどかに霞み、月のおもてもいと明かうもあらず、とほう流るるやうに見えたるに、琵琶の風香調ゆるるかに弾き鳴らしたる、いといみじく聞こゆるに、また秋になりて、月いみじう明かきに、空は霧りわたりたれど、手にとるばかりさやかに澄みわたりたるに、風の音、虫の声、とりあつめたる心地するに、箏の琴、掻き鳴らされたる、横笛の吹き澄まされたるは、なぞの春とおぼゆかし。また、さかと思へば、冬の夜の、空さへ冴えわたりいみじきに、雪の降り積もり、光りあひたるに、篳篥のわななき出でたるは、春秋もみな忘れぬかし」と言ひ続けて、「いづれにか御心とどまる」

 と問ふに、秋の夜に心を寄せて答へたまふを、さのみ同じさまには言はじとて、

  浅緑花も一つに霞みつつ
  おぼろに見ゆる春の夜の月(六三)

 と答へたれば、返す返すうち誦じて、

 「さは、秋の夜は、おぼし捨てつるななりな。
  今宵より後の命のもしもあらば
  さは春の夜をかたみと思はむ」(六四)

と言ふに、秋に心寄せたる人、

  人はみな春に心を寄せつめり
  われのみや見む秋の夜の月(六五)

とあるに、いみしう興じ思ひわづらひたるけしきにて、

 「唐土などにも、昔より春秋の定めは、えしはべらざなるを、このかうおぼしわかせたまひけむ御心ども、思ふに、ゆゑはべらむかし。わが心のなびき、その折の、あはれとも、をかしとも思ふことのある時、やがてその折の空のけしきも、月も花も、心にそめらるるにこそあべかめれ。春秋を知らせたまひけむことのふしなむ、いみじう承らまほしき。
 冬の夜の月は昔よりすさまじきもののためしにひかれてはべりけるに、またいと寒くなどして、ことに見られざりしを、斎宮の御裳着の勅使にて下りしに、暁に上らむとて、日ごろ降り積みたる雪に月のいと明かきに、旅の空とさへ思へば、心細くおぼゆるに、まかり申しに参りたれば、余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに、さべき所に召して、円融院の御世より参りたりける人の、いといみじく神さび、古めいたるけはひの、いとよしふかく、昔の古事ども言ひ出で、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶の御琴をさし出でられたりしは、この世のことともおぼえず、夜の明けなむも惜しう、京のことも思ひ絶えぬばかりおぼえはべりしよりなむ冬の夜の雪降れる夜は思ひ知られて、火桶などを抱きても、かならず出でゐてなむ見られはべる。
 御前たちも、かならずさおぼすゆゑはべらむかし。さらば今宵よりは暗き闇の夜の、時雨れうちせむは、また心にしみはべりなむかし。斎宮の雪の夜に劣るべき心地もせずなむ」

など言ひて、別れにし後は、誰れと知られじと思ひしを、またの年の八月に、内裏へ入らせたまふに、夜もすがら殿上にて御遊びありけるに、この人のさぶらひけるも知らず、その夜は下に明かして、細殿の遣戸を押し開けて見出だしたれば、暁方の月のあるかなきかに、をかしきを見るに、沓の声聞こえて、読経などする人もあり。読経の人は、この遣戸口に立ち止まりて、物など言ふに応へたれば、ふと思ひ出でて、

 「時雨の夜こそ、片時忘れず恋しくはべれ」

と言ふに、言長う応ふべきほとならねば、

  何さまで思ひ出でけむなほざりの
  木の葉にかけし時雨ばかりを(六六)

とも言ひやらぬを、人びとまた来あへば、やがてすべり入りて、その夜さり、まかでにしかば、もろともなりし人たづねて、返ししたりしなども後にぞ聞く。「ありし時雨のやうならむに、いかで琵琶の音のおぼゆるかぎり弾きて聞かせむとなむある」と聞くに、ゆかしくて、われもさるべき折を待つに、さらになし。

 [寛徳元年〈一〇四四〉春ごろ、資通が訪れる (三十七歳)]

 春ごろ、のどやかなる夕つ方、参りたなりと聞きて、その夜もろともなりし人とゐざり出づるに、外に人びと参り内にも例の人びとあれば、出でさいて入りぬ。

 あの人もさや思ひけむ、しめやかなる夕暮れを、おしはかりて参りたりけるに、騒がしかりければ、まかづめり。

  かしまみて鳴戸の浦に漕がれ出づる
  心はえきや磯の海人(六七)

とばかりにてやみにけり。あの人がらも、いとすくよかに、世の常ならぬ人にて、「その人は、かの人は」なども、尋ね問はで過ぎぬ。

  【第四章 物詣での記 寛徳二年<一〇四五>九月から数年後まで(三十八歳から以後数年)】

 [寛徳二年<一〇四五>十一月二十余日、石山寺に詣でる (三十八歳)]

 今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出でらるれば、今はひとへに豊かなるいきほひになりて、ふたばの人をも思ふさまにかしづき生ほしたて、わが身もみくらの山につみ余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、霜月の二十余日、石山に参る。
 雪うち降りつつ、道のほどさへをかしきに、逢坂の関を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひ出でらるるに、そのほどしも、いと荒う吹いたり。

  逢坂の関のせき風吹く声は
  昔聞きしに変らざりけり(六八)

 関寺のいかめしう造られたるを見るにも、その折、荒造りの御顔ばかり見られし折思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり。打出の浜のほどなど、見しにも変らず。暮れかかるほどに詣で着きて、斎屋に下りて御堂に上るに、人声もせず、山風恐ろしうおぼえて、おこなひさしてうちまどろみたる夢に、「中堂より麝香賜はりぬ。とくかしこへ告げよ」といふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす。
 又の日もいみじく雪降り荒れて、宮に語らひ聞こゆる人の具したまへると、物語りして心細さを慰む。三日さぶらひてまかでぬ。

 [永承元年<一〇四六>十月二十五日、初瀬に詣でる (三十九歳)]

 その返る年の十月二十五日、大嘗会の御禊とののしるに、初瀬の精進はじめて、その日京を出づるに、さるべき人びと、
「一代に一度の見物にて、田舎世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむも、いとものぐるほしく、流れての物語ともなりぬべきことなり」
など、はらからなる人は言ひ腹立てど、稚児どもの親なる人は、
「いかにもいかにも心にこそあらめ」
とて、言ふに従ひて、出だし立つる心ばへもあはれなり。ともに行く人びともいといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ。かかる折にま詣でむ心ざしを、さりとも思しなむ。かならず仏の御しるしを見む」と思ひ立ちて、その暁に京を出づるに、二条の大路をしも渡りて行くに、先に御灯明持たせ、供の人びと浄衣姿なるを、そこら桟敷どもに移るとて、行き違ふ馬も車も徒歩人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、安からず言ひ驚き、あさみ笑ひ、あざける者どももあり。
 良頼の兵衛督と申しし人の家の前を過ぐれば、それ桟敷へわ渡りたまふなるべし。門広う押し開けて、人びと立てるが、
 「あれは物詣で人なめりな。月日しもこそ世に多かれ」
と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、
 「一時が目をこやして何にかはせむ。いみじく思し立ちて、仏の御徳かならず見たまふべき人にこそあめれ。よしなしかし。物見で、かうこそ思ひ立つべかりけれ」
とまめやかに言ふ人、一人ぞある。

[法性寺から宇治の渡りへの道中]

 道顕証ならぬ先にと、夜深う出でしかば立ち遅れたる人びとも待ち、いと恐ろしう深き霧をも少しはるけむとて、法性寺の大門に立ち止まりたるに、田舎より物見に上る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず、物の心知りげもなきあやしの童べまで、ひきよきて行き過ぐるを、車を驚きあさみたることかぎりなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに仏を念じたてまつりて、宇治の渡りに行き着きぬ。
 そこにもなほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟の舵とりたる男ども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔に当てて、棹におしかかりて、とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。むごにえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮の女どもの事あるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かなと思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君の、かかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。

 夜深く出でしかば、人びと困じて野路地といふ所に留まりて、物喰ひなどするほどにしも、供なる者ども、
「高名の栗駒山にはあらずや。日も暮れ方になりぬめり。ぬしたち調度とりおはさうぜよや」
と言ふを、いと物おそろしう聞く。その山越えはてて、贄野の池のほとりへ行き着きたるほど、日は山の端にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人びとあかれて宿求むる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆の小家なむある」と言ふに、「いかがはせむ」とて、そこに宿りぬ。みな人びと京にまかりぬとて、あやしの男二人ぞゐたる。その夜もいも寝ず、この男出で入りしありくを、奥の方なる女ども、

「などかくしありかるるぞ」

問ふなれば、

「いなや、心も知らぬ人を宿したてまつりて、釜はしも引き抜かれなば、いかにすべきぞと思ひてえ寝でまはりありくぞかし」

と、寝たると思ひて言ふ、聞くにいとむくむくしくをかし。

[東大寺、石上神宮に詣でて、山辺の寺に宿る]

 つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて拝みたてまつる。石上もまことに古りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、山辺といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経少し読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむことなく清らなる女のおはするに参りたれば、風いみじう吹く。見つけてうち笑みて、

「何しにおはしつるぞ」

と問ひたまへば、

「いかでかは参らざらむ」

と申せば、

「そこは内裏にこそあらむとすれ。博士の命婦をこそよく語らはめ」

とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくていよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜、御寺に詣で着きぬ。

[長谷寺に三日間籠もって帰途につく]

 祓へなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとてうちねぶりたる夜さり御堂の方より、「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。
 暁、夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂のこなたなる家を尋ねて宿りぬ。これもいみじげなる小家なり。

「ここはけしきある所なめり。ゆめ寝ぬな。料外のことあらむに、あなかしこ、おびえ騒がせたまふな。息もせで臥させたまへ」

と言ふを聞くにも、いといみじう侘しく恐ろしうて、夜を明かすほど、千歳を過ぐす心地す。からうじて明け立つほどに、

「これは盗人の家なり。あ主人の女、けしきあることをしてなむありける」

など言ふ。いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代いと近う漕ぎ寄りたり。

  音にのみ聞きわたりこし宇治川の
  網代の波も今日ぞ数ふる(六九)

 [永承二年<一〇四七>春秋に、鞍馬寺に詣でる (四十歳)]

 二三年、四五年隔てたることを、次第もなく書き続くれば、やがて続き立ちたる修行者めきたれど、さにはあらず。年月隔たれる事なり。
 春ごろ、鞍馬に籠もりたり。山際霞みわたり、のどやかなるに、山の方よりわづかに野老など掘り持て来るもをかし。出づる道は花もみな散りはてにければ、何ともなきを、十月ばかりに詣づるに、道のほど山のけしき、このごろは、いみじうぞまさる物なりける。山の端、錦を広げたるやうなり。たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうに湧きかへるなど、いづれにもすぐれたり。詣で着きて、僧坊に行き着きたるほど、かき時雨れたる紅葉の、たぐひなくぞ見ゆるや。

  奥山の紅葉の錦ほかよりも
  いかに時雨れて深く染めけむ(七〇)

とぞ見やらるる。

 [永承四、五年<一〇四九、一〇>頃、再び石山寺、長谷寺に詣でる (四十二、三歳頃)]

 二年ばかりありて、また石山に籠もりたれば、夜もすがら雨ぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしきものと聞きて蔀を押し上げて見れば、有明の月の谷の底さへ曇りなく澄みわたり、雨と聞こえつるは、木の根より水の流るる音なり。

  谷川の流れは雨と聞こゆれど
  ほかよりけなる有明の月(七一)

 また初瀬に詣づれば、初めにこよなくもの頼もし。所々にまうけなどしていきもやらず。山城の国ははその森などに紅葉いとをかしきほどなり。初瀬川渡るに、

  初瀬川立ち帰りつつ訪ぬれば
  杉のしるしもこのたびや見む(七二)

と思ふもいと頼もし。三日さぶらひてまかでぬれば、例の奈良坂のこなたに、小家などに、このたびはいと類広ければ、え宿るまじうて、野中にかりそめに庵造りて据ゑたれば、人はただ野にゐて夜を明かす。草の上にむかばきなどをうち敷きて、上にむしろを敷きて、いとはかなくて夜を明かす。頭もしとどに露置く。暁方の月、いといみじく澄みわたりて、よに知らずをかし。

  行方なき旅の空にも遅れぬは
  都にて見し有明の月(七三)

 [日常生活に満足の日々]

 何ごとも心にかなはぬこともなきままに、かやうにたち離れたる物詣でをしても、道のほどををかしとも苦しとも見るに、おのづから心も慰め、さりとも頼もしう、さしあたりて嘆かしなどおぼゆることどもないままに、ただ幼き人びとを、いつしか思ふさまにしたてて見むと思ふに、年月の過ぎ行くを、心もとなく頼む人だに人のやうなるよろこびしてはとのみ思ひわたる心地、頼もしかし。
 いにしへいみじう語らひ、夜昼歌などよみ交はしし人の、ありありても、いと昔のやうにこそあらね、絶えず言ひわたるが、越前守の嫁にて下りしが、かき絶え音もせぬに、からうじて便り訪ねてこれより、

  絶えざりし思ひも今は絶えにけり
  越のわたりの雪の深さに(七四)

と言ひたる返事に、

  白山の雪の下なるさざれ石の
  中の思ひは消えむものかは(七五)

 弥生の朔日ごろに、西山の奥なる所に行きたる、人目も見えず、のどのどと霞みわたりたるに、あはれに心ぼそく、花ばかり咲き乱れたり。

  里遠みあまり奥なる山路には
  花見にとても人来ざりけり(七六)

 世の中むつかしうおぼゆるころ、太秦に籠もりたるに、宮に語らひきこゆる人の御もとより文ある。返事きこゆるほどに、鐘の音の聞こゆれば、

  しげかりし憂き世の事も忘られず
  入相の鐘の心細さに(七七)

と書きてやりつ。

 うらうらとのどかなる宮にて、同じ心なる人、三人ばかり物語りなどして、まかでてまたの日、つれづれなるままに恋しう思ひ出でらるれば、二人の中に、

  袖濡るる荒磯波と知りながら
  ともにかづきをせしぞ恋しき(七八)

と聞こえたれば、

  荒磯はあされど何のかひなくて
  潮に濡るる海人の袖かな(七九)

 いま一人、

  みるめ生ふる浦にあらずは荒磯の
  波間数ふる海人もあらじを(八〇)

 同じ心にかやうに言ひ交はし、世の中の憂きも辛きもをかしきも、かたみに言ひ語らふ人、筑前に下りて後、月のいみいう明かきに、かやうなりし夜、宮に参りてあひては、つゆまどろまずながめ明かいしものを、恋しく思ひつつ寝入りにけり。宮に参りあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端近うなりにけり。覚めざらましをと、いとどながめられて、

  夢覚めて寝覚めの床の浮くばかり
  恋ひきと告げよ西へ行く月(八一)

 [ある年の秋、和泉国に行く]

 さるべきやうありて、秋ごろ和泉に下るに、淀といふよりして、道のほどのをかしうあはれなること、言ひ尽くすべうもあらず。高浜といふ所に留まりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の舵の音聞こゆ。問ふなれば、遊女の来たるなりけり。人びと興じて、舟にさしつけさせたり。遠き火の光に、単衣の袖長やかに、扇さし隠して、歌うたひたる、いとあはれに見ゆ。
 またの日、山の端に日のかかるほど住吉の浦を過ぐ。空も一つに霧りわたれる、松の梢も、海の面も波の寄せ来る渚のほども、絵に描きても及ぶべき方なうおもしろし。

  いかに言ひ何に喩へて語らまし
  秋の夕べの住吉の浦(八二)

と見つつ、綱手引き過ぐるほど、返り見のみせられて、あかずおぼゆ。
 冬になりて上るに、大津といふ浦に舟に乗りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふぶきて、神さへ鳴りてとどろくに、波の立ち来る音なひ、風の吹きまどひたるさま、恐ろしげなること、命限りつと思ひまどはる。岡の上に舟を引き上げて夜を明かす。雨は止みたれど、風なほ吹きて舟出ださず。行方もなき岡の上に五六日と過ぐす。からうじて風いささか止みたるほど、舟の簾巻き上げて見わたせば、夕潮ただ満ちに満ちくるさま、とりもあへず、入江の田鶴の声惜しまぬもをかしく見ゆ。国の人びと集まり来て、「その夜この浦を出でさせたまひて、石津に着かせたまへらましかば、やがてこの御舟なごりなくなりなまし」など言ふ心細う聞こゆ。

  荒るる海に風より先に船出して
  石津の波と消えなましかば

  【第五章 晩年の記 天喜五年<一〇五七>頃から康平二年〈一〇五九〉まで(五十歳頃から五十二歳)】

 [わが身の病に、子たちの将来を思う]

 世の中にとにかくに心のみ尽くすに、宮仕へとても、もとは一筋に仕うまつりつかばやいかがあらむ、時々立ち出でば、何なるべくもなかめり。年はややさだ過ぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなうおぼえならるるうちに、身の病いと重くなりて、心にまかせて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、「幼き人びとを、いかにもいかにも、わがあらむ世に見置くこともがな」と臥し起き思ひ嘆き頼む人の喜びのほどを、心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ち出でたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なく口惜し。親の折より立ち帰りつつ見し東路よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく下るべきことども急ぐに、門出はなる人の新しく渡りたる所に、八月十余日にす。後の事は知らず、そのほどのありさまは物騒がしきまで人多くいきほひたり。

 [天喜五年<一〇五七>八月二十七日、夫橘俊通任国信濃国に下る (五十歳)]

 二十七日に下るに、男なるは添ひて下る。紅の打ちたるに、萩の襖、紫苑の織物の指貫着て、太刀はきて、尻に立ちて歩み出づるを、それも織物の青鈍色の指貫、狩衣着て、廊のほどにて馬に乗りぬ。ののしり満ちて下りぬる後、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、先々のやうに心細くなどはおぼえであるに、送りの人びと、又の日帰りて、「いみじうきらきらしうて下りぬ」など言ひて、「この暁にいみじく大きなる人魂のたちて、京ざまへなむ来ぬる」と語れど、供の人などのにこそはと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは。

 [康平元年<一〇五八>十月五日、夫橘俊通死去す (五十一歳)]

 今はいかで、この若き人びと大人びさせむと思ふよりほかの事なきに、返る年の四月に上り来て、夏秋も過ぎぬ。九月二十五日よりわづらひ出でて、十月五日に夢のやうに見ないて、思ふ心地、世の中に又たぐひある事ともおぼえず。初瀬に鏡奉りしに、ふしまろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は来し方もなかりき。今行く末は、あべいやうもなし。二十三日はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたてかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣の上に、ゆゆしげなる物を着て、車の供に、泣く泣く歩み出でて行くを見出だして思ひ出づる心地、すべてたとへむ方なきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。

 昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふしるしの杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ天照御神を念じたてまつれと、見ゆる夢は人の御乳母して、内裏わたりにあり、帝后の御蔭に隠るべきさまをのみ、夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはで止みぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみ違はぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうて止みぬる人なれば、功徳も作らずなどしてただよふ。

 [阿弥陀来迎の夢を頼りとする (五十一歳)]

 さすがに命は憂きにも絶えず長らふめれど、後の世も思ふにかなはずぞあらむかしとぞ、うしろめたきに、頼むこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、ゐたる所の家のつまの庭に、阿弥陀仏立ちたまへり。さだかには見えたまはず、霧ひとへ隔たれるやうに、すきて見えたまふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮花の座の、土を上りたる高さ三四尺、仏の御丈六尺ばかりにて、金色に光り輝きたまひて、御手片つ方をば広げたるやうに、いま片つ方には印を作りたまひたるを、こと人の目には見つけたてまつらず、われ一人見たてまつるに、さすがにいみじくけ恐ろしければ、簾のもと近くよりてもえ見たてまつらねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来む」とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。この夢ばかりぞ、後の頼みとしける。

 [晩年の日々 歌をよみつつ日を送る (五十二歳頃)]

 甥どもなど、一所にて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は所々になりなどして、誰れも見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎に当たる甥の来たるに、珍しうおぼえて、

  月も出でて闇に暮れたる姨捨に
  何とて今宵訪ね来つらむ(八三)

とぞ言はれにける。
 ねむごろに語らふ人の、かうて後訪れぬに、

  今は世にあらじものとや思ふらむ
  あはれ泣く泣くなほこそは経れ(八四)

 十月ばかり、月のいみじう明かきを、泣く泣くながめて、

  ひまもなき涙に曇る心にも
  明かしと見ゆる月の影かな(八五)

 年月は過ぎ変り行けど、夢のやうなりしほどを思ひ出づれば、心ちもまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどの事は、またさだかにもおぼえず。人びとはみなほかに住みあかれて、古里に一人いみじう心細く悲しくて、ながめ明かし侘びて久しう訪れぬ人に、

  しげり行く蓬が露にそほちつつ
  人に訪はれぬ音をのみぞ泣く(八六)

 尼なる人なり。

  世の常の宿の蓬を思ひやれ
  背き果てたる庭の草むら(八七)

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