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渋谷栄一(C)(ver.1-2-1)

定家筆跡変遷史と定家仮名遣い

歌合切「十八番右 そてのかを」(藤原定家自筆〈30歳代後半〉 書芸文化院蔵 『平安の書の美』図録76)
源通具と俊成女との五十蕃歌合の断簡
「十八番
  左
そてのかを人やとかめむたちはなの
かけふむみちのむらさめのそら
  右
たちはなのにほふあたりのうたゝねは
ゆめもむかしのそてのかそする
   左右ことなるとかなく又
   おなしほとのことに
           侍へし」

《図録解説》「定家独自の線の太い細いの変化のはげしさが見えず、一般的な定家の筆跡のイメージとは異なるが、これは、定家の三十歳代の半ばころから三十九歳以前の若書き筆跡である。
 定家の若書きで、やや右肩上がりの連綿の流れのよい筆致。わずかに、線が太くなる傾向が見える。定家筆「反古懐紙」(五島美術館蔵)、定家筆「一紙両筆懐紙」(東京・永青文庫蔵)が同筆で、書きぶりが近い。」(『平安の書の美』168頁)
《飯島春敬》「定家の書としてはむしろ若書きで彼の習癖があまり出ていず、清新な感覚を発揮している最も好ましい作品の一つである。定信様式の偏平ないかにも速写らしい流動的な線の展開である。」(『平安の書の美』所収「春敬コレクション名品図録」より)

歌合切「左 はれくもる」(藤原定家自筆〈30歳代後半〉 東京国立博物館蔵 『特別展 日本の書』図録122)
「 左
はれくもるそらをはしらすこのはちる
おとにたもとはうちしくれつゝ
  右
こからしにこのはふりしくやとるれは
つゆもとまらぬそてのうへかな
   そらをはしらすこのはちるかゝらんおり
   たに左のかちと申さまほしく侍を
   このつゆのたまらぬそてのうへ猶
   とこなつ香春花なとをよめんやうにや
   きこえ侍へき
   木きのうはゝのかせのおとそこそときゝわかれ
   ねとそのふしをも侍らぬをのかしのはらも
   すゝろにいうにいかてはれてよるの
   そてもつゆけき心ちし侍れはまさると
                 申へし」

《定家仮名遣い》・「おと」(音)は、定家仮名遣いでは「をと」と表記される。しかし、ここでは2例とも歴史的仮名遣い正しく「おと」と表記されている。
・「おり」(折)は、歴史的仮名遣いでは「をり」と表記されるが、ここでは定家仮名遣い「おり」と表記されている。
・「をのか」(己が)は、歴史的仮名遣いは「おのが」である。定家仮名遣いでは「をのか」と表記される。
以上、「おり」「をのか」は定家仮名遣いであるが、「おと」についてはいまだ定家仮名遣いとなっていないことが知られる。

《図録解説》「この断簡は定家がその席上にて草卒の間に書き留めたものである。きわめて自然に書き流されてはいるが、鋭く張りをもつ筆跡には気脈と息づかいの長さが感じられ、定家晩年期に見られる特有の肉太の線や震えなどの奇癖は影をひそめている。おそらく、三〜四十代の荘年期の筆と思われる。」(『特別展 日本の書』122解説)
《春名好重》「自由に速く書き流している。細い線がよく暢達していて、連綿は長い。非常に巧妙にして秀麗である。「侍らん」の「侍」は「は」のようであり、「らん」は「ん」を長く書いたようである。晩年の仮名の肥厚鈍渋にして枯燥であるのとは全く別の姿と趣とを示している。定家の四十歳ごろの筆跡と考えられる。」(『古筆大辞典』106頁)

三首詠草懐紙「春 さくらはな」(藤原定家自筆〈30歳代後半〉 書芸文化院蔵 『平安の書の美』図録77)
「  春           定家
さくらはなちりかひかすむいつかたの
くもゐにかほるはるのやまかせ
  春日山
神かけやかせたにとはぬさかきはは
身をしるつゆと消る日もなし
  老祝
行としのまたひさしくもねかふかな
もちひる人のまたおそれをもなし」

《定家仮名遣い》・「かほる」(薫)は、歴史的仮名遣い「かをる」である。
・「もちひる」の歴史的仮名遣いは「もちゐる」である。

《図録解説》「流れるように筆が進み、連綿も軽やかである。定家の一般のイメージする書風とは異なるが、これは、定家の若書きで、いわゆる定家様のスタイルを意識して書き始める前と思われる。
 定家が父藤原俊成に添削を求めたとも思われ、改まった書ではないため、日常の書が見える。ただし、定家は、四十歳を過ぎると、日常の文字についても、次第に定家様を書いており、晩年はいつも特徴ある定家様であったと思われる。」(『平安の書の美』所収「春敬コレクション名品図録」より170頁)

反古懐紙「詠初冬嵐和歌」(藤原定家自筆 〈39歳〉 五島美術館蔵 『やまとうた一千年』図録201)
「     社頭
    神かきや秋にはあへぬくすのはは
    けさおくしもにふりやはてなん
  詠初冬嵐和歌
    左近衛権少将藤原定家
けふよりはふゆのあらしのた
つたかは
(以下、消息の下書略)」

《定家仮名遣い》・「をく」(置)は、歴史的仮名遣い「おく」である。定家仮名遣いでは「をく」と表記される。

《図録解説》「藤原定家が懐紙として清書し始めたものだが、何かの理由で中断し、反古として別の機会に手紙の下書などを記したもの。位署に「左近衛権少将」とあり、四十一歳までに書かれたことがわかる。懐紙に清書した和歌は、正治二年〈一二〇〇〉十月一日の歌合において「初冬嵐」の題で詠じた「けふよりや冬のあらしのたつた川嶺のにしきは波のまにまに」の一首の詠草(草稿)であることから、歌合の直前のものと考えられ、定家三十九歳の書と推定できる。」(『やまとうた一千年』解説212頁)

熊野懐紙「詠深山紅葉和歌」(藤原定家自筆 建仁元年〈40歳〉 個人蔵 『やまとうた一千年』図録202)
「 詠深山紅葉和歌
    左近衛権少将藤原定家
こゑたてぬあらしも
ふかきこゝろあれやみやま
のもみちみゆきまちける
  海辺冬月
くもりなきはまのまさこ
にきみか世のかすさへ
見ゆるふゆの月かけ」

建仁元年<一二〇一>、藤原定家四十歳、後鳥羽天皇の熊野行幸に随行した折の書。

詠草「泊瀬山」(藤原定家自筆 建永二年〈46歳〉 陽明文庫蔵 『詩歌と書 日本の心と美』図録128)
「 泊瀬山
をはつせやみねのときは木
ふきしをりあらしにくもる
ゆきのやまもと」

《図録解説》「最勝四天王院の障子和歌は、後鳥羽上皇・慈円・家隆・雅経ほか当時の著名な歌人十人が名所四十六か所につき各一首、すなわち一人四十六首を詠じ、最終的に一所に一首あて秀歌が選ばれた。時に建永二年〈一二〇七〉、定家は四十六歳であった。」(『詩歌と書 日本の心と美』作品解説266頁)

詠草切「武蔵野」(藤原定家自筆 建永二年〈46歳〉 前田育徳会蔵 『前田育徳会展示室 開館記念名宝展』図録10-(26))
「 武蔵野
むさしのゝゆかりのいろもとひわかぬ
みなからかすむはるのわかくさ
  白河関
くるとあくとひとを心にをくらさて
ゆきにもなりぬしらかはのせき
  安達原
しくれゆくあたちのはらのうすきりに
またそめはてぬ秋そこもれる
  阿武隈河
おもひかねつまとふちとりかせさむみ
あふくまかはのなをやたつぬる」

《定家仮名遣い》・「をくらさ」(後・遅)は、歴史的仮名遣い「おくらす」である。定家仮名遣いでは「をくらす」と表記される。

《作品解説》「一二〇七年(承元元)最勝四天王院の障子絵に題する和歌の詠進を命ぜられた時の草稿かと思われる。草稿だけにきわめて自由に筆を馳せていて、定家としても別趣の味わいである。」(『前田育徳会展示室 開館記念名宝展』作品解説10-(26))

定家願文草案「法印宗清岩清水八幡宮立願草案」(藤原定家自筆 貞応二年〈62歳〉 天理図書館蔵 『天理図書館開館60周年記念展』図録6)
《図録解説》「この願文は、岩清水八幡宮の権別当田中宗清が、速やかに別当職に補任される事を願い、藤原定家が書いた草案。当時の願文作成作法を伝えて貴重。早く建保5年(1217)に式部権少輔大江周房によって漢文体の願文が作られていたが、貞応2年10月に至り宗清の請いにより定家が、原文をほぼ忠実に平仮名交り文に書き下したもの。時に定家62歳、書としても、定家様を縦横に駆使した傑作である。(中略) 巻末貼付の別紙に、寛永三筆の一人近衛信尹慶長15年(1610)の識跋がある。」(『天理図書館 開館60周年記念展』6頁)

《参考文献》
『特別展 日本の書』(昭和53年10月 東京国立博物館)
春名好重編著『古筆大辞典』(昭和54年11月 淡交社)
『前田育徳会展示室 開館記念名宝展』昭和58年11月 石川県立美術館)
『天理図書館 開館60周年記念展』平成2年10月 天理大学附属図書館)
『特別展 詩歌と書 日本の心と美』(平成3年10月 東京国立博物館)
『平安の書の美』(平安書道研究会第六〇〇回記念特別展 平成12年4月 書芸文化院・五島美術館)
『やまとうた一千年』(平成17年10月 五島美術館・大東急記念文庫)

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