注釈の生成と継承 Last Updated 12/16/97(ver.1-1-1)
Eiichi Shibuya(C)

第二節 明融臨模本「源氏物語」の付箋について

  はじめに

 明融臨模本「柏木」帖が、その名のとおり、尊経閣文庫本「柏木」帖の本文と奥入を行数・字形までそっくりに書写したものであることは、周知のところである。しかし、「柏木」帖の尊経閣文庫本の付箋と明融臨模本の付箋との関係については、特に注意されることがなかった。
 私見によれば、尊経閣文庫本「柏木」帖の付箋6枚(幅約1.5cm×長約7.5cm)は、明融臨模本「柏木」帖の、付箋44枚あるうちの、すべてA規格(幅2.6~2.7cm×長7.4~7.6cm)7枚の付箋に対応している。明融臨模本は尊経閣文庫本の本文のみならず、付箋も書承しているのである。尊経閣文庫本に1枚不足するのは伝来過程で剥落したのではないか、と推測されるのである(注1)。
 ところで、もし、そうであるとするならば、他の明融臨模本7帖に貼付されている同紙型の47枚の付箋も、定家本の付箋を継承するものではなかろうかと、推測される。
 本稿では、明融臨模本八帖の付箋の内容と表記について考察する。

  一、「柏木」巻の尊経閣文庫本と明融臨模本の付箋について

 前稿では、尊経閣文庫本と明融臨模本の付箋の紙型の相関性について論じた。ここではその内容や表記について論じたい。
 明融臨模本「柏木」帖の付箋は、源氏物語の本文の場合とは違って、付箋の字形までそっくり書写するというのではないが、紙型のみならず、その内容及び表記の密接性から、やはり、それを踏まえた上で書写されているように考えられるのである。
 以下、尊経閣文庫本の付箋を掲出し、明融臨模本との異同について、逐一その様相を検討していこう。そして明融臨模本の付箋の特徴について析出する。

  1「うくも世の思心にかなはぬか/たれもちとせの松ならなくに」(2丁表)
   a「たれも」(尊)-「たれ」(明)

 明融臨模本も和歌を上句と下句とに分けて、2行で表記する。さて、明融臨模本の「たれ」は明らかな脱字である。書写者の不注意さが窺われる。明融臨模本の付箋では、臨模とは違った、このようなやや緩慢で不注意な書写がある。しかし、他の文字については、漢字・仮名の表記、さらに仮名の場合にはその字母までそっくり同じである。

  2「夏むしの身をいたつらになすことも/ひとつおもひによりてなりけり」(2丁裏)
   a「ことも」(尊)-「事も」(明)
   b「ひとつ」(尊)-「一」(明)
   c「おもひに」(尊)-「思ひに」(明)

 尊経閣文庫本は上句の末字「ことも」を「す」の左側に表記する。明融臨模本でもやはり上句の末字「事も」を「す」の左側に書く。このように、明融臨模本も2行書きにし、上句の末尾が1行中に収まりきれない場合には、その左側に書くという方針は、以下でも一貫している。
 しかし、表記の異同や字配りなどから必ずしも尊経閣文庫本の付箋で左側に書いたのと同文字を書くとは限らない。なお、ここでは仮名を漢字に改めているが、以下にも同じような例が見られ、明融臨模本の付箋には仮名を漢字に改める傾向がある。
 仮名の字母については、「いたつら」(尊)-「いた徒ら」(明)という異同が1例ある。他はすべて同じである。

  3「人の世をおいをはてにしせましかは/けふかあすかもいそかさらまし」(4丁裏)
   a「人の世を」(尊)-「人の世の」(明)
   b「おいを」(尊)-「をいを」(明)
   c「はて」(尊)-「限」<はて>(明)

 この和歌も、尊経閣文庫本では上句末尾「かは」を「し」の左側に表記する。明融臨模本も同様に「かは」を「まし」の左側に書く。ところで、この付箋の引歌には本文異同が見られる。明融臨模本の付箋では第1句「を」が「の」となっている。また、「お(老)い」の仮名遣いも違う。さらに明融臨模本の付箋には「限」と書き、それをミセケチにし「はて」と改めている。寡聞にして「限」を「はて」と訓む例を知らない。類聚名義抄でも「限」は「カギリ カギル キハ」(法中46)(注2)という訓はあるが、「はて」という訓は見られない。出典は朝忠集である。
 「人のよのおいをはてにしせましかばけふかあすかといそがざらまし」(注3)とある。
 第4句に「と」(朝)-「も」(付)の異同があるが、他は同じである。源氏釈や河海抄にも第1句「人のよの」とある。明融臨模本の付箋はそれらと一致する。尊経閣文庫本の付箋は定家自筆本「奥入」と同文である。明融臨模本の付箋の筆者は、尊経閣文庫本の付箋を注意深く見ないままに思い込みで書き記したか、あるいは朝忠集によって書き記したものであろうか。
 いづれにせよ、明融臨模本の付箋は、元の付箋の文字や表記にとらわれることなく比較的自由に書写しているところがある。なお、その他の仮名の字母は同じである。

  4「我こそや見ぬ人こふるくせつけれ/あふよりほかのやむくすりなし」(30丁裏)
   a「我こそや」(尊)-「我こそや<ハ>」(明)
   b「見ぬ」(尊)-「みぬ」(明)
   c「くせつけれ」(尊)-「くせつけれ<病スレ イ>」(明)
   d「ほかの」(尊)-「外の」(明)

 尊経閣文庫本は上句の末字「れ」を「け」の左側に表記する。明融臨模本でも同様に「け」の左側に書く。しかも字母は同じく「連」を使用する。明融臨模本は、間投助詞「や」の右側に「は」という係助詞を傍書する。さらに「くせつけれ」の右側に「病すれ」という異本表記をする。出典は拾遺和歌集である。
 定家本「拾遺集」(注4)では、第3句「やまひすれ」、第4句「あふ日ならては」とあって、自筆本「奥入」や尊経閣文庫本の付箋とも異なった本文である。
 源氏釈には「われこそや見ぬ人こふるくせつけれあふよりほかのやむくすりなし」(前田家本)とある。
 定家は、自己の拾遺集によったのでなく、源氏釈所引歌をそのまま引用しているのである。明融臨模本の傍書や異本表記は付箋の表記と同筆に見える(図1参照)。しかし、尊経閣文庫本には見えない異本注記であるから明融臨模本筆者の注記である。明融臨模本の付箋の筆者には定家本の付箋をただ書写するだけでなく、他本との異同を書き加えることをもし、ある意味で客観的な視座をもって書写している面も窺えるのである。
 なお字母の異同として「く寸り」-「く春り」がある。他の字母はすべて同じである。

  5「春ことに花のさかりはありなめと/あひ見むことはいのちなりけり」(42丁裏)
   a「ことに」(尊)-「毎に」(明)
   b「見む」(尊)-「みん」(明)
   c「ことは」(尊)-「事は」(明)
   d「いのち」(尊)-「命」(明)

 尊経閣文庫本は2行に表記されているが、明融臨模本は1行目2字分くらいの余白があるにもかかわらず、上句の末尾「めと」を「な」の左側に表記する。明融臨模本では、仮名を漢字に改めている。しかし又一方で、漢字を仮名に改めてもいる。字母の異同については、「こと仁」-「毎尓」、「あ里」-「あ利」、「こと者」-「事八」という異同が3例見られ、やや多くなっている。しかし、その他の字母は同じである。

  6「よりあはせてなくなるこゑをいともして/わかなみたをはたまにぬかなむ」(42丁裏)
   a「こゑ」(尊)-「聲」(明)
   b「いともして」(尊)-「いとにして」(明)
   c「なみた」(尊)-「涙」(明)
   d「たまに」(尊)-「玉に」(明)
   e「なむ」(尊)-「なん」(明)

 尊経閣文庫本の「いともして」の「も」は小さい文字のためよくわからない。あるいは「いとにして」かも知れない。自筆本「奥入」では「いとにして」とある。当付箋の表記でも、尊経閣文庫本が上句末尾「して」を「とも」の左側に表記するが、明融臨模本でも同様に「して」を「をいとに」の左側に書く。
 ところで、明融臨模本には上句の右側に付箋の文字と同筆に見える「あさみとり糸よりかけてー」という傍書がある(図2参照、略)。
 尊経閣文庫本の付箋に無い本文である。字配りから見て、この引歌を書いた後の右側余白に書いたという趣で、行間が詰まった感じである。
 ところで、この歌の出典は伊勢集である。「あさみとり」歌は異文ではなく、古今和歌集、春上、27、僧正遍昭、の第1・2句である。明融臨模本の筆者が、類歌として書き加えたものであろう。4同様に注記の追加が見られる。
 その他に、仮名と漢字の異同3例、「む」と「ん」の表記上の異同1例、字母では、「あ者せて」-「あ八せて」、「和か」-「王か」、「を波」-「を八」という異同が3例ある。その他の字母は同じである。
 なお、最後に、明融臨模本には・紀在昌の本朝秀句の詩句が有るが、尊経閣文庫本に無いので、ここで比較検討することはできない。ただ、漢詩文詩句の場合、対句形式で引用して2行書きにしていることを指摘しておこう。
 以上、尊経閣文庫本の付箋は、すべて和歌の指摘である。その際、上句と下句に分けて2行書きし、上句が1行中に書ききれない場合には、それを1行中の末尾の文字の左側に書く(漢詩文詩句の場合には対句形式で引用し2行書きしたものであろうことが、明融臨模本7の付箋から想像される)。
 明融臨模本の付箋も、尊経閣文庫本の付箋と同様に、和歌を上句と下句に分けて2行書きにし、上句の末尾が1行中に収まりきれない場合には、それが1行中の末尾の文字の左側に書かれている。ただし、その左側に書く文字は尊経閣文庫本のそれと必ずしも一致しない。次いで、仮名の字母に数多くの共通性が見られる。
 以上のことから、明融臨模本の付箋の筆者は、基本的には尊経閣文庫本の付箋を踏まえて書写しているものであろうと考えられる。しかし、時には、仮名を漢字に改めたり、また仮名遣いを改めたり、仮名の字母を別の字母に改めたりなどもしている。さらには、若干の本文の異同や異本表記、類歌の書き入れなどが見られる。しかし、その逆に削除したり別の和歌に置き換えるということはない。あくまでも尊経閣文庫本の付箋の和歌を踏まえて、その上で独自の注記を書き加えているものであることは重要であろう。

  二、その他の明融臨模本7帖の付箋について

 さて、明融臨模本には「柏木」帖の他に、「桐壺」(9枚)「帚木」(2枚)「花宴」(4枚)「若菜上」(6枚)「若菜下」(14枚)「橋姫」(4枚)「浮舟」(8枚)の7帖すべてにA規格(幅2.6~2.7cm×長7.4~7.6cm)の付箋に和歌または漢詩文詩句を注記したものが合計47枚存在する。
 ただし、問題のある「花散里」帖は除く(付箋はナシ)。また、例外として「若菜下」帖末の奥入に「史記」の出典注記文の上に貼られた幅1.0cm×長2.9cmの押紙が1枚あるが、これは規格外なので除く。それ以外の紙型またそれ以外の注記はない。すべて同紙型・同内容に関する注記である。
 なお、明融臨模本のツレの実践女子大学所蔵の明融等筆本44帖には、「須磨」「玉鬘」「常夏」「篝火」「夕霧」「総角」「蜻蛉」に合計12枚の付箋・押紙があるが、それらは紙型や内容も臨模本のそれとは別種である。両者の間にはまったく交渉はないものと考えられる。
 明融臨模本の付箋は、定家本の付箋と関係あるものと推測される。しかし、それら明融臨模本の親本である定家本が現存しないので、それを確認することはできない。そこで、定家自筆本「奥入」との関係を検討することによって、間接的ながら定家本の付箋を書承するものであることを論じたい。

  1「桐壺」

 「桐壺」帖の付箋9枚は、和歌の注記6枚(1~5・8)と漢詩の注記3枚(6・7・9)である。一方、自筆本「奥入」には、数え方によって違いも生じるが、10項目の和歌及び漢詩の注記がある。自筆本「奥入」にあって、明融臨模本の付箋に指摘されないのは、

 4「いかにしてありとしられしたかさこのまつのおもはむこともはつかし」

 の和歌と、

 6「歸来池苑皆舊 大液芙蓉未央柳」

 の漢詩とである。前者は、古今和歌六帖、第5、名を惜しむ、の歌である。他の古注釈書及び現行の注釈書でも指摘される歌である。
 なぜ明融臨模本の付箋に指摘されないのか、未詳である。後者の詩句は長恨歌のものである。明融臨模本奥入では「對此如何 芙蓉似面柳如眉」とある。
 「大液芙蓉未央柳もけにかよひたりしかたちを」(大成17頁10行)
 という本文に対して、自筆本「奥入」の指摘より適切な注記となっている。しかし、不完全な詩形のままである。それゆえにか、付箋には指摘されなかったのではないかと推測される。
 その逆に、自筆本「奥入」に指摘されなくて、明融臨模本の付箋にある和歌がある。

 1「かすしらす君かよはひを/のはへつゝなたゝるやとのつゆと/なるらん」(3丁裏)

 である。しかし、この和歌は「桐壺」本文に該当しない。参考までに、伊井春樹『源氏物語引歌索引』によれば、「野分」(4-1)と「藤袴」(26-1)の2か所に指摘される和歌である。そして、この和歌は上句と下句に分けた2行書きでなく、途中で切って3行書きにした異例な表記である。その他では、
 2「人の」(自奥)-「人は」(明付)、9「春宵」(自奥・明付)-「春夜」(明奥)、「従此」(自奥・ 明付)-「従是」(明奥)という異同がある。
 2は出典未詳歌で、自筆本「奥入」の独自異文である。ところで、9の明融臨模本の奥入と付箋との注記の間で異同があるのはどうしたわけか。明融臨模本の付箋は自らの奥入とは無関係に親本の付箋から引かれていることを物語るものか。2~9は、すべて自筆本「奥入」に指摘されているものである。

  2「帚木」

 「帚木」帖の付箋2枚は、いずれも和歌の注記である。自筆本「奥入」には11項目の和歌と漢詩の指摘がある。明融臨模本「帚木」帖にも自筆本「奥入」とほぼ同内容の注記がある。なぜ、2首だけが付箋にあり、他がないのかは未詳である。
 さて、1は、自筆本「奥入」にも指摘する和歌であるが、下句の始まりを1行目左下に表記するので、異例な表記である。
 2は、自筆本「奥入」の和歌との間に若干の異同がある。すなわち、「こひしきを」(自奥・明奥)-「恋しさの」(明付)、「なくさめむ」(自奥)-「なくさまん」(明奥・明付)、「夢たに見えす」(自奥・明奥)-「夢た(た$、$ミセケチ)に(+も、+補入)みえす」(明付)。
 明融臨模本の付箋は「たに」の「た」をミセケチにし、かつ「に」と「み」の間に「モ」を補入する。さらに「ぬるよなけれは」の左側に「レ」という符号の下に「テモアル也」とある(図3参照、略)。おそらくは下句の語順が転倒している異文もあるという意であろう。
 前田家本「源氏釈」が「ぬるよなけれは夢にたにみす」とある。吉川家本勘物・異本紫明抄も前田家本所引歌に同文である。明融臨模本の付箋のように「恋しさの」「なぐさまん」「夢にも見えず」と指摘する注釈書は、伊井春樹『源氏物語引歌索引』によれば、旧注の一葉抄と花屋抄である。
 初句については、その出典及び古注時代では、「恋しきを」(拾遺集・内裏歌合・奥入・紫明抄)または「恋しさを」(源氏釈・異本紫明抄・河海抄)とある。「恋しさの」という句は見られない。
 なお、第3句に関しては、拾遺集・内裏歌合・吉川家本勘物・奥入・異本紫明抄が「なくさめむ」とあり、前田家本「源氏釈」・都立中央図書館本「伊行釈」・河海抄が「なくさまん」とある。書陵部本「源氏釈」は「なくさめん」の本文の「め」右傍に「まイ」という異文表記(前田家本をさすか)とある。
 そして第4句「夢だに見えず」とあるのは拾遺集・奥入・紫明抄、一方「夢にも見えず」とあるのは内裏歌合・都立中央図書館本「伊行釈」・河海抄である(注5)。
 明融臨模本の付箋はそれら錯綜する古注釈書の諸説の在りようと関係するものだろうか。いずれにしても、明融臨模本の付箋は、自筆本「奥入」指摘の引歌を踏まえて、それに古注釈書の説を参照して、異文表記や訂正などを行っているのは、「柏木」帖の付箋4と6と相通じるものである。

  3「花宴」

 「花宴」帖の付箋4枚は、いずれも和歌の注記である。自筆本「奥入」では、和歌の指摘は3項目である。自筆本「奥入」に指摘されず、明融臨模本の付箋に指摘された和歌とは、

 1「おもはしと思ふも物をおもふなり/思はしとたにおもはしやなそ」(3丁裏)

 である。古注、旧注、新注を通じて、いずれの注釈書でも指摘しない。この歌は『源氏物語引歌索引』によれば、「葵」(17-1)に指摘される和歌である。ここにあるのは不審である。
 2~4の和歌はすべて自筆本「奥入」にある歌である。なお、2「春の夜の」(自奥)-「春の夜に」(明付)、3「ありこし」(自奥)-「あり(+こ)し」(明付)という異同がある。2は明融臨模本付箋の独自異文。うっかり誤写や脱字といった不注意によるものであろうか。「柏木」帖の付箋1と3と相通じるものである。

  4「若菜上」

 「若菜上」帖の付箋6枚は、漢詩1枚(1)と和歌5枚(2~6)の注記である。自筆本「奥入」には漢詩及び和歌の注記が8項目ある。そのうち2項目が付箋に引かれていない。一つは、
 1「春の夜のやみはあやなしむめの花」
 という、古今和歌集、春上、41、凡河内躬恒の歌である。源氏釈をはじめ異本紫明抄他の古注釈書で指摘し、現行の注釈書でも指摘するが、自筆本「奥入」では上句だけの指摘。そうした事情でか、定家本の付箋には指摘されない。「橋姫」帖にも同例が見える。いま一つは、
 8「吹風も心しあらはこの春は/さくらをよきてちらさゝらなむ」
 である。この歌は出典未詳歌で、源氏釈に引かれるが、古注釈書諸本間で異同の多い歌である。細流抄や紹巴抄では「引歌に及ぶべからず」と批判されるが、現行の注釈書では再び指摘される。そうした古注・旧注の諸説の存在が関連するのであろうか。その他の6項目の注記は、明融臨模本の付箋に引かれている。なお、3「ありぬへし」(自奥)-「ありなまし」(明付)という異同がある。出典は後撰和歌集、恋三、725 、読人しらず、の歌。明融臨模本の付箋は都立中央図書館本「伊行釈」と同文。しかし、直接的関係によるのではなく、そうした異文同士の一致であろう。

  5「若菜下」

 「若菜下」帖の付箋14枚は、すべて和歌の注記である。自筆本「奥入」の和歌の注記は14項目である。それらがすべて明融臨模本の付箋に引かれている。
 なお、6では「ありといふなる」(自奥)-「ありといふなり(り$る)」(明付)と同筆のミセケチで訂正している。その一方で、「ありそのうみの(の$に)」(自奥)-「ありそ海に」(明付)とある。
 定家自筆本「奥入」でミセケチにして訂正した本文に従ってはいるものの、改行の際に、その左側に「海に」と書いたのだが、「の」を脱してしまっている。「柏木」帖1の脱字が想起される。
 また、10については、「なにかうき世にひさしかるへし」(自奥)-「有てよのなかはてのうけれは」(明付)という異同がある。
 この「残りなく」歌は、古今和歌集、春下、71、読人しらず、の歌である。定家自筆本「奥入」で「なにかうき世にひさしかるへし」と注記しているのは、源氏釈(前田家本)に「なこりなくちるそめてたきさくら花なにかうきよにひさしかるへき」とあったのに依ったのであろう(ただし、第1句は「のこりなく」と訂正)。明融臨模本の付箋の本文は定家本「古今集」の本文と同文である。
 「柏木」帖4にも定家本「拾遺集」の本文を異文表記した例があったが、そこには「ーイ」とあった。しかし、ここにはそれがないから、おそらく、この訂正は定家本の本文に付箋として転記する際に訂正されたものではなかろうか。それを明融臨模本の付箋は書承しているように推測される。
 14には「花はちりける」(自奥)-「花はちりく(く$け)る」(明付)という異同がある。明融臨模本の付箋14枚は、自筆本「奥入」中の14首の和歌が定家本では研究の進展を経てその付箋に注記され、それを継承したものであろう。

  6「柏木」(省略)

  7「橋姫」

 「橋姫」帖の付箋4枚は、すべて和歌の注記である。自筆本「奥入」には5項目ある。うち、3つが重複し、残り2つは出入りがある。明融臨模本に引かれていない2つとは、

 1「宇治河の夢の枕に夢さめてよるはゝしひめいやねさるらむ」と
 2「ぬしゝらぬかこそにほへれ秋のゝに」

 である。前者は、源氏釈指摘の出典未詳歌で、定家もいったんはそれを自筆本「奥入」に引用したが、後に「不可然」という注記をしている。明融臨模本の奥入でも掲載しているが、「同時哥歟不可為証哥歟」という、さらに詳細な注記が付いている。そのような意味で、定家本の付箋では引かれていないのだろう。
 2は上句のみ指摘する。「若菜上」に同例がある。一方、重複する3首の内、1「鴈の行」(自奥)-「鴈のくる」(明付)という異同がある。
 定家本「古今集」によれば、「雁のくる」とある。定家がそれを「鴈の行く」としているのは、源氏釈に「かりのゆく」(前田家本)とあったのを、そのまま引用したからであろう。
 明融臨模本の付箋では、「若菜下」10同様に、訂正された本文を書承しているものと推測される。なお、源氏或抄物では「かりのくる」とある。定家は前田家本系統の源氏釈を参照したのであろう。
 逆に、自筆本「奥入」に指摘されなくて明融臨模本の付箋にある注記とは、

 2「をちこちのたつきもしらぬ山中に/おほつかなさもよふことり哉」(29丁裏)

 である。この和歌は旧注の孟津抄以降の注釈書が指摘する。定家本の付箋にあったものか、明融臨模本付箋の筆者が書き加えたものか、現時点では未詳である。

  8「浮舟」

 「浮舟」帖の付箋8枚は、すべて和歌の注記である。一方、自筆本「奥入」には、16項目の和歌の注記がある。そのうち9項目が明融臨模本の付箋に引かれていない。「帚木」帖同様に引かれることの少ない帖である。
 ところで、自筆本「奥入」はなくて、明融臨模本の付箋に指摘される注記が1つある。

 2「春のよのやみはあやなし梅のはな/色こそみね香やはかくるゝ」(38丁裏)

 である。異本紫明抄以降の注釈書が指摘する(ただし、初句のみ指摘)。定家本にあったものか、明融臨模本が書き加えたものか、これも未詳である。ところで、「桐壺」「若菜上」「橋姫」では、自筆本「奥入」で不完全な形の指摘の場合は付箋に引かれなかったが、ここでは、上句だけ指摘また第五句が空白の和歌も、いずれも明融臨模本付箋では指摘する(4・5・8、6)。
 なお、5「たらちねの」(自奥)-「たらちめの」(明付)、「おやのいさめしうたゝねは」(自奥)-「をやのかふこのまゆこもり」(明付)という異同がある。源氏物語の本文「おやのかふこは」(大成1897頁1行)には、明融臨模本の付箋所引歌が適切である。
 7「その日はいつそ」(自奥)-「その日をいつと」(明付)とある。出典は新勅撰和歌集、恋2、734 、読人しらず、の歌。ところで、新勅撰和歌集は藤原定家撰の勅撰集である。源氏釈では第2句「その日はいつそ」(前田家本)とある。定家はそれを引用したのであろう。新勅撰集では「その日をいつと」とあり、明融臨模本の付箋と同文である。定家本の付箋では自筆本「奥入」の本文を訂正したのであろう。

  むすび

 以上、明融臨模本八帖の付箋54枚は、すべて同紙型の紙片に和歌または漢詩を注記したものである。書式についても、和歌は上句と下句に分けて2行に書かれ、漢詩は対句形式で2行に書かれている。ツレの明融等筆本44帖の付箋・押紙12枚とは、内容・形態ともにまったく別種である。明融臨模本の付箋の内容は自筆本「奥入」と密接な関係にあるものである。
 尊経閣文庫本の付箋について、池田亀鑑博士は「伊行の源氏釈その他の旧注を本文該当箇所に小紙片を以て掲げてゐる」(注6)と述べているが、そうではあるまい。明融臨模本の親本たる定家本は、尊経閣文庫本「花散里」「柏木」両帖に見るように、自筆本「奥入」の中から、和歌と漢詩の注記を、長文の漢文や歌謡その他の注記から分離させて、本文中に付箋の形で注記したものと推測されるのである。明融臨模本の付箋はそうした定家本の付箋を書承したものと考えられる。
 したがって、自筆本「奥入」にあって、明融臨模本の付箋にない注記というのは、自筆本「奥入」で否定されたり(橋姫1)、その他の古注釈書で否定されるような問題のあるものであったり(若菜上8)、あるいは不完全な漢詩の詩型や和歌の上句だけだったりするものである(桐壺6・若菜上1・橋姫2、ただし、浮舟は例外)。
 なお、明融臨模本の付箋の剥落ということも推測されるが、「帚木」「浮舟」両帖のように、改めて考えねばならない問題もある。また、両者の間に異同がある場合には、自筆本「奥入」では源氏釈の注記をそのまま引用していたのを、定家本の付箋ではそれを適切な本文に訂正したのではないかと推測されるものである(若菜下10・橋姫1・浮舟7)。
 だがしかし、自筆本「奥入」になくて、明融臨模本の付箋にある注記というのは、どう理解すべきか。適切な注記(橋姫2・浮舟2)もあれば、そうでない注記(桐壺1・花宴1)もある。いったい、誰が付けたものにせよ、これらの付箋には何らかの錯綜する問題があるのだろう。なお未解決の問題も2、3あるが、明融臨模本の付箋は、基本的にはその親本たる定家本の付箋を継承しているものと考えて間違いないだろう。

  注

 (1)拙稿「藤原定家と『源氏物語』注勘--「柏木」巻における尊経閣文庫本・明融臨模本・大島本の奥入・付箋・行間注記・朱合点等の関係を中心として--」(国学院大学『日本文学論究』第53冊 平成6年3月)
 (2)観智院本『類聚名義抄』(昭和50年5月 風間書房)
 (3)新編国歌大観本による。底本は藤田美術館蔵「小堀本」である。
 (4)『藤原定家筆 拾遺和歌集』(平成2年11月 汲古書院)
 (5)拙稿「源氏釈の研究〔資料篇〕(1)」(『高千穂論叢』第24巻第3号)
 (6)『源氏物語大成』巻7(研究資料篇 66頁 昭和31年1月 中央公論社)

 付記 本稿は、国文学研究資料館における共同研究「中世古典注釈書の研究」の「藤原定家の『源氏物語』注釈とその継承--定家本・明融臨模本・大島本の奥入・付箋・行間注記等の関係を中心として--」(平成6年9月28日 研究発表)の一部である。大島本の奥入・付箋及び行間注記については、別の機会にまとめたい。

初出「藤原定家の「源氏物語」注釈とその継承について--明融臨模本の付箋を中心として--」(『王朝文学史稿』第21号 平成8年3月 国学院大学王朝文学史研究会)

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