注釈の生成と継承 Last Updated 12/18/97(ver.1-1-1)
Eiichi Shibuya(C)

第三節 大島本「源氏物語」の付箋について(1)

  はじめに

 尊経閣文庫所蔵のいわゆる青表紙原本「花散里」「柏木」両帖には、幅約1.5cm×長約7.5cmの引歌に関する付箋がそれぞれ2枚、6枚ある(注1)。その忠実な臨模本である東海大学桃園文庫所蔵の明融臨模本「柏木」帖には、44枚の長短大小さまざまな付箋がある中で、引歌及び引詩に関する7枚の付箋は、いずれも幅2.6~2.7cm×長7.4~7.6cmの紙片に書かれており、内容的にも尊経閣文庫本「柏木」帖の付箋との書承関係が認められる(注2)。尊経閣文庫本に1枚不足するのは、剥落したのではないかと推測される。そして、他の明融臨模本7帖にも、同型紙片47枚に引歌及び引詩に関する付箋がある。これらも尊経閣文庫本系統の定家本の付箋を書承するものではないかと推測される(注3)。
 ところで、大島本「柏木」帖には付箋はないのだが、藤本孝一氏は大島本の他の16帖に36枚の付箋と10箇所の糊付跡が認められることを指摘されている(注4)。それによれば、朱筆・墨筆、大小さまざまな紙片と注記内容がある中で、引歌指摘の付箋は、すべて朱筆で幅1.8~2.3cm×長8.5~9.1cmの紙片に書かれているのである。
 本稿では、大島本の朱筆による引歌注記に関する付箋は、明融臨模本の引歌注記の付箋同様に、この付箋も定家本の付箋を書承するものであろうことを論証したい。そして、その定家本とは、尊経閣文庫本とは違った別の定家本であろうことを推測したい。

  一、大島本の付箋の概要について

 まず、大島本の付箋の概要について述べる。
 大島本には、朱筆と墨筆の2種類の筆で付箋に書き記されている。そのうち、引歌注記に関する筆はすべて朱筆である。そしてほぼ同一の規格の紙片に注記されている。
 それに対して、引歌注記以外の異文注記や読み方の注記等は朱筆・墨筆の両方で書き記され、しかも、その紙片はばらばらの大きさである。ちょうど明融臨模本「柏木」帖の付箋において、尊経閣文庫本の付箋を書承するものはほぼ同一の規格の紙片に書き記され、それ以外の注記の付箋がばらばらの大きさの紙片に書き記されていたようにである。
 ただ、「玉鬘」の2枚の付箋は引歌指摘の付箋と同一規格なのであるが、その中の1枚は不完全な形で、引歌指摘の注記とは認め難い。これだけが例外となるのである。
 次に表にして示そう。

  1「帚 木」付箋1枚
   1 13丁ウ10行上(幅2.8cm×長6.8cm=b) 朱筆・異文注記
  2「空 蝉」付箋2枚
   1 2丁オ8行上(幅1.8cm×長8.6cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 13丁オ2行上(幅2.0cm×長8.6cm=a)○朱筆・引歌指摘
  3「末摘花」付箋7枚
   1 16丁ウ4行上(幅2.2cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 31丁ウ3行上(幅2.2cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
   3 32丁オ9行上(幅2.2cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
   4 36丁オ5行上(幅2.3cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
   5 36丁オ7行上(幅2.3cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
   6 37丁ウ10行上(幅2.3cm×長9.1cm=a)○朱筆・引歌指摘
   7 38丁オ5行上(幅2.2cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
       糊付跡2箇所
   1 32丁ウ9行上
   2 33丁オ3行上
  4「明 石」付箋2枚
   1 32丁オ6行上(幅2.3cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 36丁ウ1行上(幅2.2cm×長8.7cm=a)○朱筆・引歌指摘
       糊付跡4箇所
   1 26丁オ2行上             △
   2 28丁オ6行上             △
   3 32丁ウ2行上             △
   4 35丁オ1行上
  5「澪 標」付箋1枚
   1 30丁ウ10行上(幅2.5cm×長7.8cm=b) 墨筆・異文注記
  6「松 風」付箋2枚
   1 22丁オ2行上(幅2.1cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 22丁オ3行上(幅2.1cm×長8.7cm=a)○朱筆・引歌指摘
       糊付跡1箇所
   1 23丁オ3行上
  7「薄 雲」付箋3枚
   1 34丁オ7行上(幅2.2cm×長8.6cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 35丁オ2行上(幅2.2cm×長9.0cm=a)○朱筆・引歌指摘
   3 38丁ウ7行上(幅2.2cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
  8「朝 顔」付箋3枚
   1 12丁ウ1行上(幅2.1cm×長8.6cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 15丁ウ3行上(幅2.2cm×長8.5cm=a)○朱筆・引歌指摘
   3 18丁オ10行上(幅2.2cm×長8.6cm=a)○朱筆・引歌指摘
       糊付跡2箇所
   1 6行ウ8行上              △
   2 16丁オ1行上             △
  9「玉 鬘」付箋2枚
   1 39丁ウ10行上(幅2.3cm×長8.9cm=a) 朱筆・断片未詳
   2 43丁ウ2行上(幅2.0cm×長8.7cm=a)○朱筆・引歌指摘
  10「野 分」付箋1枚
   1 11丁ウ6行上(幅3.0cm×長8.5cm=b) 朱筆・異文注記
  11「行 幸」付箋1枚
   1 1丁オ2行上(幅2.0cm×長8.9cm=a)○朱筆・引歌指摘
  12「藤 袴」付箋2枚
   1 7丁ウ5行上(幅1.0cm×長5.2cm=c) 墨筆・不審注記
   2 8丁オ3行上(幅1.2cm×長3.9cm=c) 墨筆・断片未詳
  13「若菜上」付箋3枚
   1 31丁ウ9行中(幅0.5cm×長11.5cm=d)墨筆・漢字読方
   2 31丁ウ10行中(幅0.5cm×長8.3cm=d)墨筆・漢字読方
   3 31丁ウ10行中(幅0.5cm×長3.8cm=d)墨筆・漢字読方
  14「夕 霧」付箋1枚
   1 3丁オ2行中(幅0.5cm×長8.1cm=d) 朱筆・異文注記
  15「御 法」付箋1枚
   1 18丁オ1行上(幅2.4cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
       糊付跡1箇所
   1 10丁ウ7行上             △
  16「早 蕨」付箋4枚
   1 1丁オ1行上(幅2.0cm×長8.7cm=a)○朱筆・引歌指摘
   2 7丁ウ4行上(幅2.0cm×長8.7cm=a)○朱筆・引歌指摘
   3 11丁ウ7行上(幅2.0cm×長8.8cm=a)○朱筆・引歌指摘
   4 13丁ウ1行上(幅1.9cm×長8.5cm=a)○朱筆・引歌指摘

 以上、1「帚木」から16「早蕨」までの16帖に、36枚の付箋と10箇所の糊付跡がある。引歌指摘に○印、その剥落箇所に△印を付した。今、最も数の多い朱筆・引歌指摘の付箋の規格をaとし、他の付箋を紙幅を基軸に分類すると、bからdまでに分類される。明融臨模本の付箋の場合と同様に紙幅がその内容と深く係わっているように思われるので、紙幅を基準とした。

  a--幅1.9cm~2.4cm×長8.5cm~9.1cm    朱筆・引歌指摘
  b--幅2.5cm×長7.8cm           墨筆・異文注記
   幅2.8cm×長6.8cm           朱筆・異文注記
   幅3.0cm×長8.5cm           朱筆・異文注記
  c--幅1.0cm×長5.2cm           墨筆・不審注記
   幅1.2cm×長3.9cm           墨筆・断片未詳
  d--幅0.5cm×長3.8cm           墨筆・漢字読方
   幅0.5cm×長8.1cm           朱筆・異文注記
   幅0.5cm×長8.3cm           墨筆・漢字読方
   幅0.5cm×長11.5cm           墨筆・漢字読方

 朱筆・引歌指摘の付箋は、その幅はすべて1.9cmから2.4cmの範囲内(0.5cmの差異)に収まり、その長もすべて8.5cmから9.1cmの範囲内(0.6cmの差異)に収まる。
 それに対して、bはその幅2.5cmから3.0cm、長は6.8cmから8.5cmまでで、aの引歌指摘の付箋よりも幅広で長はそれ以下のものである。
 cは幅1.0cmから1.2cm、長3.9cmから5.2cm、およそaの引歌指摘の半サイズの幅の付箋で、長もそれより短くしかも不揃いなものである。
 dは幅0.5cmで皆同じ、長は3.9cmから11.5cmまで、最も不揃いなものである。しかも、aからcまでの付箋がいずれも本紙の上辺に貼付されているのに対して、dの付箋はすべて本紙の行間中に貼付されているものでもある。
 ところで、引歌指摘以外の付箋における朱筆・墨筆の相違またその特徴については、朱筆・墨筆共に異文注記があり、その限りにおいては、特に顕著な相違は見い出し難い。ただ、「若菜上」1・2・3の墨筆による漢字読方は、本文行間中の漢字表記の注記文に対して付けられたその読み方の注記であるから、行間注記以後のものとなろう。となると「夕霧」1の朱筆による異文注記(「定家本ニ」云々という異文注記)もそれらと同じ規格の紙片なので、もし同じ時期に貼付されたものとなると、「夕霧」の本文書写時期または対校時期の問題のみでなく、大島本そのものの本文の問題と絡んで、興味深い問題となる。
 前述したように、大島本は、いわゆる青表紙本原本(尊経閣文庫本)が存在し、その明融臨模本が存在する「柏木」帖には付箋はない。したがって、大島本「柏木」はその青表紙本原本(尊経閣文庫本)「柏木」帖を直接書写したものではない。またその臨模本の明融臨模本「柏木」帖を書写したものでもない。直接書写したものであれば、その付箋も書承しているだろうからである。そして、大島本「柏木」帖の本文の書写過程、すなわち、訂正以前本文の形と訂正のあり方から見ても、尊経閣文庫本の本文に直接また間接的にも基づかないことは既に考察したところである(注5)。
 また、明融臨模本が存在するその他の諸帖、「桐壺」「帚木」「花宴」「若菜上」「若菜下」「橋姫」「浮舟」においても大島本は引歌指摘の付箋をもたない。大島本の「帚木」「若菜上」にある付箋は、異文注記と漢字読方の注記の付箋である。
 したがって、大島本はそれらの諸帖においても、明融臨模本が基づいた定家本を書写したのではない。なお、明融臨模本の付箋については別稿に論究した(注6)。すなわちは、大島本の引歌指摘の付箋は、尊経閣文庫本系統の定家本の付箋を書承したものとは認められない、ということだ。にもかかわらず、引歌指摘の付箋をもつ帖が10帖存在する。ということは、別の定家本の付箋を書承したものではないか、という想像が成り立つ。
 そもそも、池田亀鑑博士は「初音」帖は別本であるとして、『校異源氏物語』『源氏物語大成校異篇』の底本に採用されなかった。しかし、その後に伊井春樹氏は、大島本には書入れ訂正の跡があり、その訂正本文に従えば、他の巻同様に青表紙本の本文となるとし、なぜ池田亀鑑博士はそうされなかったのか、という本文整定上の問題点を提起された(注7)。
 いったい、青表紙本とは親本を比較的忠実に書写した性格のもので、河内本の校訂に比すれば、別本の一種になるのではないか、という見解もある(注8)。本稿では、大島本の引歌指摘の付箋と定家自筆本「奥入」の引歌指摘との関係を考察することにより、その付箋が他の古注や旧注を基にして付けられたのではなく、定家自身によって付けられた付箋を本文と共に書承したものであろうことを論証しようとするものである。
 なお、朱筆・引歌指摘の付箋の筆者については、本文中の太字の朱筆・書入れの筆者と共に、本文書写者と同一人物の筆と認めてよいのではないかと考えている。藤本孝一氏は具体的にはどの付箋とは述べられていないが、「宿木」本文の書写者の筆と同筆の付箋の筆があることに注目されている(注9)。
 最後に、付箋の書式について。尊経閣文庫本「花散里」「柏木」両帖及び明融臨模本八帖の付箋に書かれている引歌は、いずれも上句と下句とで切り、2行書きになっていた。上句の末尾が1行中に書ききれない場合にはその左下方に書かれていた。大島本の付箋でも和歌を上句と下句とで切り、2行書きにしているので、同書式であると言える。なお明融臨模本の付箋では、本文の場合とは違って、仮名遣いや表記まで厳密に書写していないので、大島本においても問題にしない。
 以上、大島本の付箋の概略について述べた。その中で、朱筆による引歌指摘の付箋は、紙片の規格の同一性、本文と付箋の書写者の同一人性、和歌を上句下句の2行書する書式の同一性等から、定家本から書承されたものであろうことを論じた。

  二、大島本の引歌指摘の付箋と自筆本「奥入」との関係

 では、次に大島本の付箋の引歌指摘の内容について、その出典と先行の古注釈書である源氏釈や定家の自筆本「奥入」との関係及びその他の古注釈書との関係から考察する。特に、大島本の引歌指摘の付箋が古注や旧注の注釈書によって貼付されたものではなく、自筆本「奥入」と密接な関係のうちに貼付されているものであることを論じる。なお、大島本の付箋には朱筆また墨筆による異文表記や訂正跡がある。また自筆本「奥入」にも訂正跡や書加え注記などがある。しかし、ここでは訂正以前の本文関係について考察する。異文注記や訂正等については、後に一括して考察する。

  2「空蝉」

 1「夕やみは道たと/\し月待て/かへれわかせこそのまにもみん」(2丁オ8行)
 2「すゝか川いせをのあまのすて衣/しほなれたりと人やみるらん」(13丁オ1行)

 1の出典は、古今六帖第一、ゆふやみ、371 、大宅娘女の歌である。また万葉集や伊勢集にも所収の歌である。すでに源氏釈で指摘し、自筆本「奥入」でも指摘し、さらに定家自筆本「伊勢集」(注10)でも同内容である(表記上では平仮名と片仮名、変体仮名の相違がある)。
 2は、後撰集、恋3、718 、伊尹朝臣の歌である。自筆本「奥入」と大島本の付箋は同文である。ところが、定家の天福2年本「後撰集」では初句「鈴鹿山」とある。
 一方、先行の注釈書の源氏釈では「はつかしやいせをのあまのぬれ衣しほたれたりと人や見る覧」(前田家本)とある。また他の源氏釈(源氏或抄物・書陵部本)でも初句「はつかしや」とある。しかし、自筆本「奥入」と大島本の付箋とでは一致して初句「鈴鹿川」とあるのである。したがって、定家は源氏釈を踏まえながらも、初句を訂正した指摘なのである。
 奥入以後の古注釈書では、異本紫明抄は「はつかしや」の歌と「すゝか河」の歌の両歌を記載し、それぞれ「伊行」また「定家」とその依拠文献を記している。なお「定家」とは、いわゆる「定家釈」のことで、奥入とは必ずしも一致しない内容のものである(注11)。異本紫明抄において、定家の奥入は「伊行」を典拠とする「はつかしや」歌の第3句に「すて奥」として対校されているのである。紫明抄は「すゝか山」とある。河海抄は「すゝか河」と「すゝか山」の両歌を記載する。
 なお、第3句に関しては、源氏釈は「ぬれ衣」。異本紫明抄も「ぬれ衣」歌と「ぬれ衣」に「すて奥」と対校した歌。紫明抄「すて衣」。河海抄「ぬれ衣」と「すて衣」の両歌の記載である。以上のように、古注釈書で異同の多い歌である(注12)。
 そうした中で、大島本の付箋が自筆本「奥入」と同歌を引用していることは当然のようであるが、やはり注目されるのである。自筆本「奥入」と大島本の付箋が同文で、定家本の古今集や後撰集と対立するという例は、以下にも3例見られるのである。このことは特に注目しておきたいと思う。

  3「末摘花」

 1「古今イ/おもはすはおもはすとやはいひい(い=はイ)てぬ/なと(と=そイ)世中のたまたすきなる」(16丁ウ4行)
 2「白露(露=[墨]雪イ)はけふはなふりそ白たえの/そてまきほさむ人もなき身に」(31丁ウ3行)
 3「くれなゐを(を=[墨]のイ)色こき花とみしかとも/人をあくたに(たに=にはイ)うつろひにけり(ろひにけり=[墨]るてふなりイ)」(32丁オ9行)
 4「百千鳥さえつる春は物ことに/あらたまれとも我そふりゆく」(36丁オ5行)
 5「夢とこそおもふへけれとおほつかな/ねぬに見しかはわきそかねぬる」(36丁オ7行)
 6「平中妻哥云々/我にこそつらさは君かみすれとも/人にすみつくかほのけしきよ」(37丁ウ10行)
 7「にほはねとほおゑむ梅の花をこそ/われもおかしとおりてなかむれ(おりてなかむれ=[墨]折てはをらまほしけれイ)」(38丁オ5行)

 1の出典は、古今集、俳諧歌、1037、読人しらずの歌、また古今六帖にも所収の歌である。古今集では初句「ことならば」、一方、古今六帖は初句「おもはずは」とある。源氏釈に初めて指摘される。その源氏釈をはじめとする古注釈書(奥入・源氏物語古注・異本紫明抄・紫明抄・河海抄)はすべて初句「おもはすは」とあるから、古今六帖に拠ったと見るべきであろう。
 ところで、初句については定家本の古今集(無刊記伊達本、嘉禄2年本、貞応2年本)は、いずれも「ことならは」とある。それに対して、自筆本「奥入」と大島本の付箋は共に初句「おもはすは」とある。定家は、前田家本系統の源氏釈所引和歌をそのまま引用したのである。「空蝉」2と同様に定家本の古今集と対立する例となる。
 2は、古今六帖第一、雪、755 の歌、また万葉集にも所収の歌である。それには「あは雪はけさはなふりそ白妙の袖まきほさん人もあらなくに」(古今六帖)とある。大島本の付箋には墨筆による異文校合がある。一方、自筆本「奥入」にも「白露」を「あはゆき」と訂正した跡がある。これらの関係の問題については後に一括して述べる。「白露」は「降りそ」と呼応しないから誤りである。しかし、古注釈書の中に「白露」とするものがある。書陵部本の源氏釈である。なお源氏或抄物や北野本断簡、前田家本等はすべて「白雪は」とある。源氏釈(平安末期)から河海抄(南北朝期)までの古注釈書の中で、「白露は」とあるのは、この書陵部本の源氏釈と自筆本「奥入」と大島本の付箋だけである。したがって、源氏釈と定家の自筆本「奥入」及び大島本の付箋の関係は重要である。
 3は、出典未詳歌である。源氏釈が初指摘、「紅を色こき花と見しかとも人をあくにはかへらさりけり」(源氏或抄物)が典拠となる(北野本断簡は第5句「かへら」-「かはら」という異文がある)。なお、書陵部本と前田家本はこの項目がない。大島本の付箋は第4句と第5句が源氏或抄物所引歌と異文である。したがって、定家は源氏釈を参考にしながら独自に指摘したものかもしれない。自筆本「奥入」と大島本の付箋の間では特に問題はない。
 4は、古今集、春上、28、読人しらずの歌である。大島本の付箋は古今集歌と同文。源氏釈に初指摘され、自筆本「奥入」にも同文が引かれている。
 5は、後撰集、恋3、715 、清成女の歌である。この引歌は源氏釈では指摘されていない。よって定家が初めて指摘したものとなる。ところで、自筆本「奥入」と大島本の付箋とは同文なのであるが、定家の天福2年本の後撰集では、初句「夢かとも」とある。これも自筆本「奥入」と大島本の付箋が一致して定家本の後撰集に対立する例となる。ただしかし、異本紫明抄、源氏物語古注、河海抄等にもすべて「夢とこそ」とあり、自筆本「奥入」と大島本の付箋独自の共通異文とはならない。とはいえ、定家の指摘は古注釈史の中で初指摘の注釈として、後世の注釈書に書承されていった意義は大きい。
 6は、出典未詳歌である。大島本の付箋は自筆本「奥入」と同文である。源氏釈所引歌が典拠となる。しかし源氏釈諸本間には微妙に「てにをは」を異にして異文があり、自筆本「奥入」や大島本の付箋と同じものはない。しかも、大島本の付箋には朱筆による「平中妻哥云々」という書入れがあり、自筆本「奥入」にも「平中か妻哥云々」という注記がある。ただ、格助詞「が」があるという微妙な相違である。この注記があることで、自筆本「奥入」と大島本の付箋の密接性が窺われる。他の、源氏物語古注、紫明抄、河海抄は自筆本「奥入」等の和歌と同文である。しかし、和歌の前に「平中(か)妻哥云々」という注記があるのは自筆本「奥入」と大島本の付箋だけである。
 7は、曽丹集である。自筆本「奥入」には第5句「なりてなかむれ」とあるが、下の「な」に引かれた誤写である。源氏釈でも指摘するが、大島本の付箋本文は前田家本と同文である。定家本「曽丹集」でも同文(ただし、「をかし」「をりて」と歴史的仮名遣い)である(注14)。なお、墨筆による異文表記については後に述べる。

  4「明石」

 1「あたら夜の月と花とをゝなしくは/あはれしれらん人にみせはや」(32丁オ6行)
 2「忘れしとちかひしことの(の$[墨]を)あやまてす(てす$[墨]たは)みかさの山の神もことはれ」(36丁ウ1行)

 1の出典は、後撰集、春下、103 、源信明の歌である。また信明集所収の歌でもある。源氏釈が指摘し、自筆本「奥入」と大島本の付箋でも同文、さらに他の古注釈書でも同文である。
 2は、出典未詳歌である。初指摘の源氏釈の源氏或抄物所引歌が典拠となる。「わすれしとちかひし事をあやまたは三笠の山の神もことはれ」とある(吉川家本勘物も同文)。
 大島本の付箋の訂正以前の本文はいずれも独自異文である。自筆本「奥入」は第2句「ちかひし事を」、第3句「あやまたす」とある。大島本の付箋の訂正以前本文の「てす」では文意不通である。ところで、第3句が打消し表現であるのは自筆本「奥入」と大島本の付箋の訂正以前本文だけである。その意味で両者の関係を考える上で重要である。なお異本紫明抄、紫明抄、河海抄は源氏釈と同文の仮定表現である。

  6「松風」

 1「白雲のたえすたなひく山にたに/すめはすみぬる世にこそ有けれ」(22丁オ2行)
 2「誰をかもしる人にせん高砂の/松もむかしの友ならなくに」(22丁オ3行)

 1の出典は、古今集、雑下、945 、惟喬親王の歌である。また古今六帖、小町集にもある歌である。源氏釈にも指摘するが、それには第2句「やえたつ山の」、第3句「岑にたに」、第4句「すめはすまるゝ」とある。大島本の付箋等とはずいぶんと異なった本文である。ところで、自筆本「奥入」と大島本の付箋は、古今集と古今六帖、小町集とほぼ同文であるが、第3句が異なる。古今集等が「岑にたに」とあるのに対して、大島本の付箋と自筆本「奥入」は「山にたに」とする。なお異本紫明抄は「みねにたに」という本文に「山にたに」という奥入の異文を対校する。紫明抄、河海抄も「みねにたに」とある(注15)。「山にたに」とするのは自筆本「奥入」と大島本の付箋だけである。ここでも自筆本「奥入」と大島本の付箋が定家本の古今集等と対立するのが見られるのである。
 2は、古今集、雑上、909 、藤原興風の歌である。また和漢朗詠集、古今六帖、興風集にもある歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」にも同文を指摘する。

  7「薄雲」

 1「いにしへの昔のことをいとゝしく/かくれはそてのつゆけかりける」(34丁オ6行)
 2「むすほゝれもえしけふりもいかゝせん/きみたにこめよなかき契を」(35丁オ2行)
3「むめかゝをさくらの花にゝほはせて/やなきの(の$か)えたにさかせてし哉」(38丁ウ7行)

 1は、出典未詳歌である。源氏釈に指摘するが、それには下句「かくれは袖に露かゝりけり」(前田家本)とある。自筆本「奥入」は大島本の付箋とほぼ同文である。ただ「袖ぞ」と「袖の」という異同がある。語法的には係結びの法則として自筆本「奥入」の「つゆけかりける」とある方がよしとされよう。なお紫明抄が大島本の付箋同様に「露の」とある。自筆本「奥入」と大島本の付箋の下句の形が後世の注釈書に継承されている。
 2も、出典未詳歌である。源氏釈に指摘するが、それには第5句「わかきちきりを」(前田家本)とある。自筆本「奥入」は大島本の付箋と同文である。源氏釈の「わかき」は「なかき」の誤写と思われる。
 3は、後拾遺集、春上、82、中原致時朝臣の歌である。源氏釈に指摘し自筆本「奥入」も同文を指摘する。大島本の付箋の訂正以前の本文は文意は同じだが、原歌と異なった独自異文である。

  8「朝顔」

 1「すまのあまのしほやき衣はれゆけは/[墨]此哥不審/うきたのみこそなりまさりけれ」(12丁ウ2行)
 2「しなてるやかたをか山にいひにうへて/ふせるたひ人あはれおやなし」(15丁ウ4行)
 3「かけていへはなみたの川のせをはやみ/心つからやまたもなかれん」(18丁オ9行)

 1は、出典未詳歌である。源氏釈に指摘する「すまのあまのしほやき衣なれゆけはうきめのみこそみえまさりけれ」(源氏或抄物)が典拠となる。一方、前田家本は初句「すまの浦の」、下句「うきたのみこそなりまさりけれ」とある(注16)。前田家本の初句は独自異文。他の古注釈書はすべて「すまのあまの」とある。自筆本「奥入」は、第4句が「うけたのみこそ」という独自異文。一方、大島本の付箋は第3句「はれゆけは」が独自異文である。自筆本「奥入」の独自異文は音韻転化であろうか。なお付箋の行間に墨筆で「此哥不審」という追記があるが、自筆本「奥入」には追記は無い。これについては、後に異文表記等と一括した中で述べる。
 2は、拾遺集、哀傷、1350、聖徳太子の歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも同文を指摘する。
 3は、古今六帖第四、なみだがは、2093の歌である。また伊勢集にもある歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも大島本の付箋と同文を指摘する。ただ、定家本「伊勢集」及び古今六帖には第5句「またはなかれん」とある。定家は源氏釈所引歌に拠ったと見るべきであろうか。助詞「は」と「も」という微妙な相違であるが、自筆本「奥入」と大島本の付箋が定家本の伊勢集と対立する例である。

  9「玉鬘」

 1「たまかつら 三」(39丁ウ10行)
 2「日本紀 ひるのこ/かそいろもいかにあはれとおもふらん/三とせになりぬあしたゝすして」(43丁ウ2行)

 1は、付箋の形態は他の引歌指摘と同形であるが、断片のため不詳である。これだけでは何とも判断がつかない。引歌指摘以外の注記ということだけ指摘しておこう。
 2は、和漢朗詠集、詠史、697 、江相公の歌である。また日本紀竟宴和歌にもある歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも大島本の付箋と同文である。しかも自筆本「奥入」では冒頭に「日本紀」という注記がある。大島本の付箋にも「日本紀 ひるのこ」という注記がある。和歌の前にこのような注記を掲載するのは自筆本「奥入」と大島本の付箋だけある。

  11「行幸」

 1「とにかくに人めつゝみをゝ(ゝ$せ)きかねて/したになかるゝをとなしの瀧」(1丁オ2行)

 1は、出典未詳歌である。源氏釈が指摘し、それが典拠となる。自筆本「奥入」でも同文を指摘する。ところで、玉上琢弥氏によれば、関戸家蔵の定家本「行幸」には、この箇所の1丁オ2「このをとなしのたきこそ」と6丁オ2行「太政大臣のかゝる野の行幸に」の2箇所に朱合点が有り、奥入には、定家自筆と認められる「仁和二年十二月十四日」云々で始まる故事が記されているという(注17)。大島本の奥入にも「仁和二年十二月十四日」云々で始まる故事1条があり、前者の「このをとなしのたきこそ」に朱合点は有るが、後者の「太政大臣の」の箇所には朱合点は無い。玉上琢弥氏は、付箋については特に何とも述べていない。無かったものであろうか、それとも剥落したのであろうか、不明である。

  15「御法」

 1「うつせみはからをみつゝもなくさめつ/ふかくさの山けふりたにたて」(17丁ウ3行)

 1の出典は、古今集、哀傷、831 、僧都勝延の歌である。また遍昭集にも所収の歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも同文を指摘する。

  16「早蕨」

 1「[墨]古今/日の光やふしわかねはいそのかみ/ふりにしさとに花もさきけり」(1丁オ1行)
 2「古/春かすみたつをみすてゝ行かりは/花なきさとにすみやならへる」(7丁ウ4行)
 3「月やあらぬ春や昔のはるならぬ/我身ひとつはもとの身にして」(11丁ウ7行)
 4「〔墨〕おくにもあつ□文不審まちくここつし/おほかたのうき身ひとつのうきからに/なへての世をもうらみつる哉」(13丁ウ1行)

 1の出典は、古今集、雑上、870 、布留今道の歌である。また古今六帖にも所収の歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも同文を指摘する。
 2は、古今集、春上、31、伊勢の歌である。また、和漢朗詠集、古今六帖、伊勢集にある歌である。源氏釈に指摘し、自筆本「奥入」でも同文を指摘する。
 3は、古今集、恋五、747 、在原業平の歌である。また古今六帖、業平集、伊勢物語にもある歌である。この引歌は源氏釈に指摘し、異本紫明抄以下の古注釈書にも指摘され、現行の注釈書でも指摘される歌であるが、自筆本「奥入」では綴じ誤りで、「夕霧」帖にある。そしてそれと同文である。
 4は、拾遺集、恋五、953 、貫之の歌である。この引歌も源氏釈に指摘し、異本紫明抄以下の古注釈書にも指摘され、現行の注釈書でも指摘される歌であるが、これも自筆本「奥入」では「夕霧」帖にある。
 以上、大島本の付箋の引歌指摘が自筆本「奥入」と内容的にも密接な関係があることを見てきた。
 第一に自筆本「奥入」と大島本の付箋との間に単独共通異文の書入注記や語形(打消表現)が見られること(末摘花6・玉鬘2、明石2)。
 第二に、自筆本「奥入」と大島本の付箋の本文が同文で、しかも同じ定家の手による定家本の古今集や後撰集そして伊勢集などの本文と対立する例があること(空蝉2・末摘花1・5、松風1、朝顔3)。
 第三に、自筆本「奥入」や大島本の付箋の訂正以前本文また元の本文が先行の源氏釈所引歌と同文で、以降の注釈書所引歌と対立すること(末摘花2)。
 第四に、先行の源氏釈を改めて引用した自筆本「奥入」と大島本の付箋の共通異文が、後世の注釈書に同文が引用され影響を与えていること(末摘花5、薄雲1)等が指摘できる。
 以上から、内容的にも自筆本「奥入」と大島本の付箋の引歌指摘とは密接な関係が認められる。大島本の付箋の引歌は、後世の人によって古注釈書を参考することによって貼付されたのではなく、自筆本「奥入」の注釈から貼付された親本(定家本)の付箋を書承するものであろうと推測されるのである。

  注

 (1)原装影印古典籍覆製叢刊『青表紙本 源氏物語』太田晶二郎「源氏物語(青表紙本)解題」(昭和53年11月 古典籍覆製叢刊刊行会)
 (2)拙稿「藤原定家と『源氏物語』注勘--「柏木」巻における尊経閣文庫本・明融臨模本・大島本の奥入・付箋・行間注記・朱合点等の関係を中心として--」(国学院大学国文学会『日本文学論究』第53冊 平成6年3月)
 (3)拙稿「藤原定家の『源氏物語』注釈とその継承について--明融臨模本の付箋を中心として--」(国学院大学王朝文学史研究会『王朝文学史稿』第21号--小林茂美先生古希記念号-- 平成8年3月)
 (4)藤本孝一「大島本源氏物語の書誌的考察」(京都文化博物館紀要『朱雀』第4集 平成3年11月)
 (5)拙稿「大島本「柏木」巻の本文について--大島本の本文校訂を中心として--」(『国学院雑誌』第95巻6号 平成6年6月)
 (6)拙稿、注3論文。
 (7)伊井春樹「大島本源氏物語の本文--『源氏物語大成』底本の問題点--」(大阪大学古代中世文学研究会『詞林』第3号 昭和63年5月)
 (8)石田穣二『源氏物語 柏木』「校訂私言」(昭和36年7月稿 桜楓社)阿部秋生『源氏物語の本文』(昭和61年6月 岩波書店)『完本源氏物語』「はしがき」(平成4年4月 小学館)室伏信助「大島本『源氏物語』採択の方法と意義」(新日本古典文学大系本『源氏物語』第1巻 平成5年1月 岩波書店)
 (9)藤本孝一、前掲論文。
 (10)天理図書館善本叢書『平安諸家集』(昭和47年5月 八木書店)
 (11)寺本直彦「『定家釈』の成立」(『『源氏物語』とその受容』所収 昭和59年9月 右文書院)
 (12)拙稿「源氏釈の研究〔資料篇〕(1)」「空蝉」7(『高千穂論叢』第24巻3号 平成元年12月)
 (13)注12、論文「同(4)」「末摘花」14(同、第25巻2号 平成2年9月)
 (14)冷泉家時雨亭叢書『平安私家集 二』(平成6年6月 朝日新聞社)

 (15)注12、論文「同(9)」「松風」13(同、第26巻3号 平成3年12月)
 (16)注12、論文「同(10)」「朝顔」4(同、第26巻4号 平成4年3月)
 (17)玉上琢弥『源氏物語評釈』第6巻(昭和41年6月 角川書店)

初出「藤原定家の『源氏物語』注釈とその継承について(上)--大島本の付箋を中心として--」(『国学院雑誌』第97巻第5号 平成8年5月)

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