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渋谷栄一(C)(ver.1-1-1)

松浦宮物語

翻刻資料

「伝後光厳院宸翰本」(文化庁蔵・原装影印古典籍覆製叢刊)
「伝伏見院宸翰本」(吉田幸一氏蔵・松浦宮物語伏見院本考 古典文庫)

《岩波・日本古典文学大辞典》「松浦宮物語<まつらのみやものがたり> 三巻。物語。作者未詳。『無名草子』に「又定家少将の作りたるとてあまた侍るめるは、ましてたゞけしきばかりにて、むげにまことなきものに侍るなるべし。松浦の宮とかやこそひとへに万葉集の風情にて…」とあるので、藤原定家の作と見なす説もあるが、明言できない。「松浦物語」「松浦宮」と題する写本もある。題名は、主人公が渡唐する時その母が詠んだ歌「今日よりや月日のいるをしたふべき松浦の宮にわが子待つとて」による。

【諸本】現存最古の写本は伝伏見院宸翰本(吉田幸一蔵)で鎌倉末期の写本。南北蝶期写本に伝後光厳院宸翰本(蜂須賀家旧蔵、文化庁蔵)があり、他には宮内庁書陵部・静嘉堂文庫・内閣文庫・尊経閣文庫・三手文庫・多和文庫・京都大学等に一本ないし数本を蔵するが、いずれも伝後光厳院宸翰本から出た江戸初期の写本である。
【複製】原装影印古典籍覆製叢刊(伝後光厳院宸翰本)
【翻刻】岩波文庫(小山田与清の『松浦宮物語考』を付載。角川文庫。桂宮本叢書16。続群書類従18輯上。」
(『日本古典文学大辞典』「松浦宮物語」中野幸一執筆 1984年10月 岩波書店)

作者について

《吉田》「定家と俊成卿女との関係は、俊成卿女は実際は俊成の孫であるが、外祖父母の俊成夫婦に愛せられ、九歳程年上の定家(一一六二−一二四一)とともに、兄妹のように俊成邸で育てられたようだから、ちょうど彼女が少女時代になって、御子左家にあった作り物語の数々を愛読しながら成人して行った頃、それはちょうど定家が盛年時で、歌道に説いた余情妖艶の理念を作り物語で具体化しようとして、遊びに発した傍若無人的−偽跋などを巧んで−態度で創作した(萩谷氏)『松浦宮』などの創作を幾篇となく書いてはその都度、俊成卿女に示して、読後感を聞いたりしたことがあったからではなかろうか。と、これは私の想定だが、そうでもなければ、作り物語の作者の実名をあげて、このように筋が通った論評は、できなかったと思う。なんとなれば、御子左家には、隆信や定家の若い時からの物語の書写本や、前代の人々の種々な書写本も相伝されていて、その中にあって、『うきなみ』の写本は隆信作、『松浦宮』の写本は定家作と著わしてなくとも、おのづから作者名を知ることができたのであろう。直接に聞かない限り、わかる術はなかったと思うからである。」(『松浦宮物語 伏見院本考』441〜442頁)
《萩谷》「従来の諸家の研究によって、この作品の内部徴証の結果のすべてが、平安末・鎌倉初期成立とするにふさわしい時代相を指向し、その作者の知識教養・作品の作風傾向が、外部徴証よりして定家的性格を示していることと、決して矛盾するものではない。むしろ、この物語の作者を定家と想定してこそ、より合理的により妥当な理解に達し得るものである事実が、次々と証明せられるに及んで、『松浦宮物語』作者定家説は、今日では動かし難い定説として学界の承認を受けるに到ったのである。」(『松浦宮全注釈』269頁)

成立年時について

《吉田》「ここに私見を付記すると、これ(石田吉貞「三十歳を超えたと思われる頃」説−−渋谷注)よりさらに一、二年前ではないかと思ふのである。その理由は、冷泉家蔵定家自筆本『拾遺愚草』上巻、重奉和早率百首(文治五年三月)の百首和歌同題、雑の部に、
  いつ我もふでのすさびはとまりゐて又なき人のあとゝいはれむ[五九八]
といふ歌が見えてゐる。この「ふでのすさび」が物語創作であるとするならば、−−もちろん『松浦宮』一篇だけを指すのではなく、それを含めての幾篇かの浪漫的作品を書いたことを意味してゐると解してもよい−−甚だ面白い結果になる。かくて文治五年(一一八九)、定家二十八歳その十一月十三日に左権少将となつてゐるが(公卿補任)、『松浦宮』の成立年時は、事実上には少将になる少し前の文治五年三月、この歌を詠んだ頃ではなからうかと考へる。そして『無名草子』作者がこれを読んで草子に論評した時には、既に定家が少将になつてゐたのだつたと思ふのである。(以上、吉田幸一昭和37年稿−−渋谷注)
定家としては、この日(文治五年十一月十三日、左近衛権少将任)の来るのがどんなに待たれたことであろう。かくして、正三位俊成の子定家が少将になったのは、二十九歳時(一一九〇)のことであり、それは前年『松浦宮』にあやかって書いた仮想の正三位橘冬明の一子弁少将の官職が、そのまま翌年(文治五年)に、定家のもとへ現実のものとなったわけである。」(『松浦宮物語 伏見院本考』508、528頁)

書誌

「伝後光厳院宸翰本」
《吉田》「箱 二重箱入。内箱一九・三×一八・六、高二・五糎。春慶塗桝型被蓋造桐箱。蓋と身の内面は黒漆塗銀小切箔散し文様。
 蓋の右肩に「後光厳院震<ママ>翰」と銀字、「まつらのミや」と金字外題あり。外箱については略す。

巻冊数 三巻一帖

装訂・書型 綴葉装。竪一八・八×一八・一五糎。桝型本。

表紙 表裏共に後補の浅黄地の中に、牡丹に二重蔓文金欄の裂。題簽外題なし。見返しは斐紙に金銀切箔、銀芒を散らす。

本文 料紙は厚様の斐紙、墨付半葉一面十一行書。和歌は改行二字下げで、末句を文に続けて書く。一行約二十字前後。

製本 一帖が折帖六括りから成り、総紙数は五十三枚、百六丁の筈が、第五十一枚目の右半葉が存し、左半葉切取のため、百五丁。内、首二丁遊紙、墨付九十八丁。尾五丁遊紙。各括別に料紙の文様などを示せば、左の通り。オ・ウは表・裏を表わす。素紙は白とす。
 第一括。九紙を二つ折にして重ねて十八丁とし、首二丁遊紙、墨付十六丁。(料紙文様は第一ウ紫雲紙、二ウ藍雲紙、三丁、四丁白、五丁オ蝶鳥下絵・五ウ月霞草花下絵、六オ菊紅葉垣下絵・六ウ蝶鳥下絵、七丁白、八丁紫染紙、九丁紫藍二色雲紙、十丁紫藍二色雲紙、十一丁紫染紙、十二オ蝶下絵・十二ウ海賦葦手下絵、十三オ三日月海賦葦手下絵・十三ウ蝶鳥下絵、十四丁白、十五丁白、十六丁白、十七オ藍雲紙・十七ウ白、十八オ紫雲紙・十八ウ白)
 第二括。九紙を二つ折にして重ねて十八丁とし、墨付十七半。(料紙文様は、一丁白、二オ白・二ウ藍雲紙、三オ蝶鳥下絵・三ウ土坡秋草下絵、四オ秋草葦手下絵・四ウ蝶鳥下絵、五丁藍染紙、六丁白、七オ蝶鳥下絵・七ウ田土坡草花葦手下絵、八オ田土坡草花葦手下絵・八ウ蝶鳥下絵、九丁白、十丁白、十一オ蝶鳥下絵・十一ウ薄野下絵、十二オ薄野下絵・十二ウ蝶鳥下絵、十三丁白、十四丁藍染紙、十五丁白、十六丁白、十七オ藍雲紙・十七ウ白、十八オ白・十八ウ白紙の中央に「松浦宮二」とあり。)
 第三括。九紙を二つ折にして重ねて十八丁とし、墨付十八丁。(料紙文様は、一丁紫染紙、二丁紫藍二色雲紙、三丁白、四丁白、五丁紫藍二色両面雲紙、六オ蝶鳥下絵・六ウ墨流しに水辺葦の下絵、七オ墨流し水辺葦の下絵・七ウ蝶鳥下絵、八丁藍染紙、九オ紫藍二色雲紙・九ウ白、十オ白・十ウ紫藍二色雲紙、十一丁藍染紙、十二丁白、十三丁白、十四丁紫藍二色両面雲紙、十五オ蝶鳥下絵・十五ウ葦手下絵、十六オ葦手下絵・十六ウ蝶鳥下絵、十七丁紫藍二色雲紙、十八丁紫染紙)
 第四括。九紙を重ねて二つ折にして十八丁とし、墨付十七丁半。(料紙文様は、一オ藍雲紙・一ウ白、二オ蝶鳥下絵・二ウ蕨伏籠下絵、三オ蕨下絵・三ウ蝶鳥下絵、四丁藍染紙、五丁白、六オ蝶鳥下絵・六ウ八重梅霞下絵、七オ霞下絵・七ウ蝶鳥下絵、八丁白、九オ白・九ウ紫雲紙、十オ紫雲紙・十ウ白、十一オ蝶鳥下絵・十一ウ遠山霞下絵、十二オ遠山霞下絵・十二ウ蝶鳥下絵、十三丁白、十四丁白、十五丁藍染紙、十六丁白、十七丁白、十八オ白・十八ウ藍雲紙の中央に「松浦宮三」と墨書。)
 第五括。九紙を重ねて二つ折にして十八丁とし、墨付十八丁。(料紙文様は、一丁藍染紙、二オ蝶鳥下絵・二ウ月雲雁秋草花籠下絵、三オ雲雁下絵・三ウ蝶鳥下絵、四丁白、五丁白、六オ蝶鳥下絵・六ウ秋野雁下絵、七オ秋野雁下絵・七ウ蝶鳥下絵、八丁白、九オ蝶鳥下絵・九ウ刈萱龍胆下絵、十オ刈萱下絵・十ウ蝶鳥下絵、十一オ蝶鳥下絵・十一ウ霞卯花垣下絵、十二オ霞卯花垣下絵・十二ウ蝶鳥下絵、十三丁白、十四丁白、十五丁白、十六丁白、十七丁白、十八丁藍染絵)
 第六括。八紙を重ねて二つ折として十六丁、墨付は前半七・五丁が本文と省筆二、次の一オは「貞観三年四月十八日…」の偽跋一、裏は白紙、その次一オに「これもまことの事也…」の偽跋二あり、以下四丁半墨付なし、他に切取り一丁あり。(料紙文様は一オ白・一ウ藍雲紙、二オ蝶鳥下絵・二ウ野田に蕨下絵、三オ野田に蕨下絵・三ウ蝶鳥下絵、四丁白、五丁紫雲紙、六丁藍染紙、七丁白、八オ白・八ウ紫雲紙、九オ紫雲・九ウ白、十オ白紙に偽跋・十ウ白、十一オ白・十一ウ紫雲紙、十二丁白、十三丁白、十四丁白、十五オ藍雲紙)如上の白紙と染紙と雲紙の三種を綴り合わせて冊子として後、金泥・銀泥を用いて下絵が施され、また染紙は、漉き染めではなく、刷き染めであることが、同じ藍紙であっても、片面が濃い藍、片面が淡い藍である場合のあることで確められ、雲紙も、片面と両面、紫と藍、紫藍二色の三種が組み合わせられているし、金銀泥の下絵は、隣り合った二丁に跨がって、初丁オと後丁ウとが蝶鳥の散らし文様、また初丁ウと後丁オとの見開きが、毎回主題を異にした構図であることが知られる。

書入 本文について付記すると、全文一筆であるが、文中にまま本文とは別筆で、校異、見せ消ち書入れがあり、人名、官名、地名の真字には、片仮名の墨傍訓、朱句点が付けられている。」(『松浦宮物語 伏見院本考』450〜452頁)

「伝伏見天皇宸翰本」
《吉田》「収納箱 内箱と外箱の二重箱入。内箱は樫箱で、蓋の大きさ竪一八・七×一八・七糎。蓋の中央上に「松浦宮」と金泥の箱書。蓋の内側に「まつら乃宮/伏見天皇 正筆/外題中院通村公 はこ梶井宮慈胤親王」の押紙あり。よって、この内箱は近世初期以前のものであろう。外箱は桐箱(竪二〇・八×二〇・七糎)、高さ五・七糎。[合+皿]の下に紫の平紬紐が通してあり、蓋の上で結ぶ方式になっている。
 外箱の正面に、銀紙(三・三×六・〇糎)が貼られ、「書籍参/松浦物語」とあり、これは旧蔵者が施したものか。中に「一松浦物語 一帖」として、昭和廿年八月四日 文部省により重要美術品の指定書がある。それは旧蔵者竹田儀一氏宛の書類である。

巻冊数 三巻合一帖

装訂・書型 綴葉装。竪一五・八×横一五・七糎。桝形本。表紙、裏表紙ともに本文紙と共紙。表紙中央上に「松浦物語」と打付書の外題は、中院通村と押紙に伝える。

本文 料紙は斐楮混漉紙、墨付半葉一面十行書。和歌は改行一字または二字下げで、末句を文に続けて書く。一行大体十五字前後。字高約十五糎。

製本 一帖が折帖または折本六括りから成り、紙数や墨付は左の通りである。
 第一括。十紙(桝形二葉の大きさ)を重ねて二つ折にして、二十丁。首一葉が表紙、次から本文、墨付十八丁(二オ〜十九ウ)
 第二括。十紙を右と同様にして二十丁。本文墨付二十丁(二十オ〜三十九ウ)
 第三括。十紙を右と同様にして二十丁。本文墨付二十丁(四十オ〜五十九ウ)。但し、四十ウ六行目の左に、「松浦宮二」とあり。以下第二巻であることを意味する。
 第四括。十紙を右と同様にして二十丁。本文墨付二十丁(六十オ〜七十九ウ)。但し、原の六十八丁〜七十一丁の四丁分は切取られている。それゆえ、現六十八丁は原七十二丁でなければならない(四丁ずつ繰上げるところ)、が、いま欠丁を無視して、原典の丁付けをつけた。
 第五括。十一紙を右と同様にして二十二丁。本文墨付二十二丁(八十オ〜百一ウ)。但し、その間、八十九ウ六行で二巻が終り、余の空白に「まつらの宮三」とあり、次丁以下第三巻となる。
 第六括。十紙を右と同様にして二十丁。内、本文墨付十七丁半(百二オ〜百十九オ)、本云半丁(百十九ウ)、偽跋一丁(百二十オ・ウ)。但し、尾遊紙一丁。裏表紙一丁(本文紙と共紙)。
 以上三巻、墨付合計一一九(原一二三)丁。」(『松浦宮物語 伏見院本考』448〜450頁)

研究文献

・山本信吉『松浦宮物語(一帖)解説』(原装影印古典籍覆製叢刊 1981<昭和56>年5月)
・吉田幸一『松浦宮物語伏見院本考』(古典文庫 1992<平成4>年11月)
・萩谷朴『松浦宮全注釈』1997年〈平成9〉3月 若草書房)

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